湖国探遊記

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石山寺の源流は縄文時代までさかのぼる?古から続く聖地としての歴史

今の石山寺に直接つながる歴史は、まず奈良時代に良弁僧正が聖武天皇の勅願を受けて聖徳太子の念持仏を祀ったことに始まるとされます。

この頃、奈良の東大寺で大仏の建立が進められていたのですが鍍金の為の金が不足していました。

そこで聖武天皇の命により良弁僧正が吉野の金峯山寺で祈った後、ここ石山でも祈ると陸奥国から金が産出されたといった伝承です。

 

しかし、なぜ石山の地で祈ることになったのでしょうか?

伝承だからと言って、やはり全く何の脈絡もなく物語が紡がれるわけではありません。

そこには、石山が物流の拠点としても聖地としても非常に重要だったことが関わっているのです。

 

まず、その歴史はこの辺り一帯にある複数の貝塚から縄文時代にまでさかのぼることが出来ます。

石山寺の東大門の前の石山貝塚、そこから瀬田川を少し北に遡った所の蛍谷貝塚、さらに瀬田川と琵琶湖の境目辺りにある粟津湖底遺跡がそれです。

これらは大規模な淡水の貝塚として知られ、特に粟津湖底遺跡は世界最大級とも言われています。

これらの貝塚により、例えば縄文時代の人々がどの様な食生活であったかなどが分かりました。

そこにはセタシジミなどの貝類、木の実に動物の骨と多様な食料に恵まれた環境の痕跡が見られ、人々をこの地に惹きつけたのだろうと想像されます。

 

また、人々が集まる住みよい土地だったからこそ篤い信仰文化も生まれたのかもしれません。

それを象徴する特に古いものが、石山寺創建時に見つかった弥生時代の銅鐸です。

 

この銅鐸発見の様子は石山寺縁起絵巻に描かれていて、石山寺を造成中に5尺(約150㎝)もの宝鐸が出土したと伝えています。(絵巻では宝鐸と書かれますが、これが銅鐸をさすと考えられています)

ただ、何処でどの様に見つかったのかは不明で銅鐸自体も失われている為、その実態は残念ながらはっきりしません。

 

それでも、江戸時代の文化3年(1806年)にも石山寺の近くから高さ90㎝程の銅鐸が出土しており、これは重文として奈良国立博物館に寄託されています。

なので、石山寺周辺で銅鐸が埋められたこと自体は確かです。

そのため、祭器である銅鐸を埋めたこの地は弥生の人にとってやはり信仰に関わる場所であったと推測されます。

 

ただ、最近の銅鐸研究でも埋められた場所がどの様な意味を持つのかはよく分かってはいません。

銅鐸は集落から離れた場所に埋められていることが多い上に、偶然見つかることがほとんどなのでその規則性がつかみにくいのです。

 

それはともかくとしても、石山が聖地として認識されていたことまでは間違いないでしょう。

中でも、石山という名前の由来にもなった巨大な硅灰石群に対する信仰は極めて重要です。

古い例を挙げると、飛鳥にある川原寺の礎石にも使われたことが分かっています。

 

これは、今の感覚だと聖なるものを勝手に使う様で不思議に思えるかもしれません。

ただ、昔は重要な物を作る際に何かしらの謂れがある物を活用することが多々あるのです。

例えば戦国武将は、寺を再建する時にはわざわざ別の寺の建物を寄進したりしました。

あるいは今でも伊勢神宮式年遷宮の際には古材を全国の神社に譲渡されますが、それはこうした信仰の名残りを感じさせます。

要するに、石山寺の巨石群が聖なるものだと信仰されていたことはむしろ選ばれた理由の1つかもしれないのです。

 

また、石山寺にはこの巨石群を仏教の聖地である補陀洛山になぞらえる伝説が残されています。

これまでの流れを踏まえると、巨石群は仏教の登場により新たな意味づけがなされたと考えられるでしょう。

仏教伝来では全く新しい思想に取って代わられる様に捉えられたりしますが、この様に在来の信仰文化と混じり合いながら受容されていくこともあったのです。

 

さらに、石山寺周辺はそれらの石材を運ぶ上でも非常に都合がいいことも重要な意味を持ちます。

つまり、石山寺の目の前を流れる瀬田川から淀川水系を辿って大阪湾まで出た後、今度は大和川をさかのぼることで飛鳥まで水運で物資を運ぶことが出来るのです。

建築に使う石材は当然非常に重たいですから、こうした水運を活用しなければその様な遠い所には運べなかったでしょう。

ちなみに、石山寺の本堂がある崖下には天智天皇の石切り場と呼ばれるかつて石を切り出した跡と考えられる遺構が今も残されています。

実際に行くと、切り出し途中の石や石を割る際に掘られる矢穴らしき跡が見られて興味深いです。

 

さらに、古くから近江はお寺などに使われる木材を多く産出する要地で、高島や甲賀などの山林が杣として切り開かれました。

それらの木材は東大寺の造営にも使われており、同じく水運を使って運ばれたのです。

しかも、これらの資材を運ぶ為の集散地が石山寺の近くに設けられます。

やはり石山寺の辺りは琵琶湖の出口である瀬田川の接続部に位置しており、近江中から集められた資材を管理するには丁度良い場所だったのでしょう。

 

こうしたことから、石山は信仰と交通の要衝として中央政権も重要視していたと考えられます。

つまり、国家事業に古くから深く関わる土地だったのです。

 

さて、ここでようやく冒頭の伝承に話が繋がります。

要するに、良弁僧正の伝承が生まれたのもこうした国家事業の要地としての背景があればこそだと推測されるのです。

そして、それはここまで書いてきた通り歴史の長い長い積み重ねの上に成り立っています。

 

ただし、それら1つ1つのつながりは判然としていないことが多いです。

例えば、今回取り上げた縄文と弥生の人々が直接関係しているのかは分かりません。

あくまで歴史の前後関係を基にしてそれぞれを並べていくと、1つの流れが見えて来る程度の話に過ぎないのです。

 

なので、その辺りをより明確にしていくことは今後の課題です。

良いように考えるなら、まだ多くの謎が残されていて探求のしがいがあるとも言えるでしょう。

やはり、その様な長い歴史の物語を感じられる石山寺は近江の中でも興味深い古刹です。