日吉大社は滋賀、あるいは近江を代表する古社の1つに数えられます。
その歴史は実に古く、古すぎるがゆえにはっきりとした始まりが分からない程です。
また、始まりがはっきりしないだけでなく、長い時の中で波乱万丈、紆余曲折、栄枯盛衰、本当に様々な出来事が巻き起こりました。
なので、近江の古社寺の中でも日吉大社の歴史はかなり難解です。
ただ、この大社は近江だけでなく日本の歴史にも深く関わるので無視することも出来ません。
そこでこの大社の歴史を学ぶにあたって、まずは歴史を大きく区分することから始めてみることにしました。
つまり、次の4つに分け一先ずの整理と方向性の確認をしようとする次第です。
そして、今回はこの4つの時代区分の簡単な説明と手掛かりとなりそうなものを紹介しします。
古代祭祀の時代
日吉大社の始まりがはっきりしない理由は、まずこの時代があるためです。
例えば文献では古事記にて日枝の山に大山咋神(おおやまくいのかみ:日吉大社の東本宮の祭神)が祀られている記載はあるのですが、それだけの情報しかありません。
あとは正直、史実なのか伝承なのか微妙な所です。
つまり、今の日吉大社が成立する前段階の時代と考えられます。
別の言い方をするなら、今の日吉大社がある場所が聖地となった時代と言えるでしょう。
しかし、何故神話の様なのにその時代があると言えるのかというと、日吉大社に例えば次の痕跡、あるいは手掛かりが残っているからです。
- 日吉古墳群:日吉大社の境内に約70基もある6世紀中頃から終わりの古墳群
- 金大巌(こがねのおおいわ):日吉大社の神体山である八王子山にある磐座
- 樹下宮にある井戸:古代祭祀に使った井戸と考えられ、後にその上に社殿が作られた
こうしたことから、古墳群を築いた氏族が磐座のある八王子山を聖地とし、麓にて井戸の水を汲み古代祭祀を行っていたことが想像されます。
ちなみに、古墳の特徴から渡来系の氏族が築いたと考えられているそうです。
そして、この様な古代祭祀の信仰が萌芽となり後の日吉大社へと繋がっていきます。
初めてよその神仏が入ってきた時代
今の日吉大社の大きな特徴として、実に様々な神が同居していることが挙げられます。
つまり、小さな祠があるだけでなく1つの神社として独立できそうな社が並び立っているのです。
こうした日吉大社の特色が生まれた端緒が、この時期ではないかと考えられます。
それまでは恐らく氏神を祀るだけだったのが、また別の神仏も同時に祀るようになったのです。
その神仏の内、まず時期がより絞れるのが大神神社の祭神である大己貴神で、天智天皇が667年に大津宮へ遷都した翌年に都の鎮護の為に勧請されたと伝わります。
ただ、具体的に誰がどの様に動いたかは分かりません。
天智天皇自身が勧請したのか、あるいは別の誰かなのかは不明です。
それでも、勧請できたことから日吉大社にかなり有力な権力者がいたことはうかがえます。
次に神仏の内、今度は仏、つまり仏教が入ってきた時期ですがこれははっきりしません。
しかし、例えば751年に成立した懐風藻にある麻田連陽春の漢詩に藤原武智麻呂が比叡山に宝殿を建てたことなどが記されています。
そのため、これ以前には比叡山の辺りにも仏教が入ってきていることがうかがえるのです。
中でも大津宮に関連する仏教政策が、どの様に影響を及ぼしたのかが重要な手がかりです。
つまり、白鳳時代にかけてこの地域に広まっていったことが考えられます。
ただし、この頃の古代寺院の遺構は坂本でははっきりとは見つかってはいません。
それでも坂本廃寺からは瓦などが見つかっており、白鳳寺院があった可能性は指摘されています。
なので、一先ず仏教がこの辺りで信仰されていたのはうかがえるのですが、ここで問題となるのは日吉大社との関係性がどうであったかです。
どんな関係だったのか、同じ集団に信仰されていたのか、気になる点が沢山あります。
これに関しかなり興味深い事柄が、最澄の父である三津首百枝が八王子山中で草庵を結び参篭した伝説です。
これは子供を授かる為のもので、この願いが通じ生まれたのが最澄であり、それ故に最澄は日吉の申し子などとも呼ばれています。
また、その場所として有力視される日吉神宮寺遺跡も八王子山中で発掘されました。
遺跡は10世紀から11世紀のものですが、その下にも遺構がある可能性を示すものも見つかっており創建期は9世紀前半まで遡るかもしれません。
なので、三津首百枝の草庵が神宮寺に発展したというよりは、元々あった神宮寺に参篭したことも想像されます。
もちろん、あくまで想像の範囲を出ない話ではあります。
ただ、八王子山で参篭したことからこの頃には日吉大社と仏教が近くにあったと考えられます。
少なくとも、人々の間ではそれぞれの信仰が同居していた状況は見て取れるでしょう。
それ以上の具体的なことは残念ながらまだまだで、これから調べてみたい事柄です。
そして、何れにしてもそうした神仏が同居するこの地域だからこそ、最澄による新たな神仏習合の段階に進む礎になったことは間違いありません。
天台宗と神仏習合の時代
日吉大社の歴史の中で最も長く、今に続く日吉大社の形が整っていったのがこの時代です。
最澄が山王権現として護法善神に位置づけた平安時代の初めの9世紀初めから、廃仏毀釈が起こる明治初めの19世紀の終わりまでおよそ千年の長きにわたります。
余りに長いので、この時代の中でも分けた方が良いかもしれません。
そして、この時代を読み解く上で欠かせないのが天台宗との関係です。
この時代は天台宗、もしくは延暦寺と連動しながら歴史が紡がれることが多くなります。
例えば日吉大社の分社が全国に広まったきっかけも、天台宗が全国へ布教する中で護法善神として一緒に祀られることが多かったからです。
なので、今でも日吉大社系の神社があれば近くに天台宗のお寺があったりします。
もし今は違う場合でも元天台宗の可能性もあり、歴史を考える手掛かりになるでしょう。
また一方で、そうした天台宗の全国展開による繋がりが日吉大社に多くの神が集まる要因の1つになったのかもしれません。
ただ、実際に天台宗と日吉大社の関係を読み解くのはかなり難しいことに感じます。
まだまだ私もほんの触りぐらいの所なのですが、それでもこれ以上どう進めばよいのかかなり頭が痛いです。
そこでまずは天台宗の歴史をさらいつつ、その中でどう日吉大社が関わったのか調べながら全体の流れを把握することから始めようかと今は思っています。
正直、今の段階では断片的な知識だらけで整理することすらままならない状態です。
しかし、それでもまずは日吉大社の歴史全体の流れを整理しようと思い筆を進めてみました。
この流れの中で何がどの様に位置づけられるのか、大づかみですが一旦整理してみようかと考えた次第です。
廃仏毀釈以後の時代
さて、最後の時代は現代まで続く区分で先程までの長く長い神仏習合の終わりから始まります。
それは明治の始まりに勃発した延暦寺と日吉大社が決定的に袂を分かつことになった事件であり、延暦寺にとっては信長の焼き討ちに並ぶ事件でもある廃仏毀釈です。
この廃仏毀釈が起こるきっかけとなったのが明治元年(1868)3月半ばから出された一連の法令で、今ではまとめて神仏分離令と呼ばれています。
これは仏教色を排除したより純粋な神道によって天皇を中心とした祭政一致の国家体制を確立し、ひいてはその高めた権威で中央集権体制を盤石にすることを狙ったものでした。
ただし、明治政府が出した一連の法令は今に伝わる様な破壊行為を命じたものではありません。
つまり、破壊行為はそれらを拡大解釈した者たちによって行われました。
そのため、廃仏毀釈の有様はその土地ごとの事情により極めて大きく異なり一概にこうだったとは言えません。
日吉大社の場合は残念ながら特に苛烈なもので、さらには廃仏毀釈の火が最初に燃え上がった地とされています。
これは延暦寺の支配体制に日吉大社や周辺の住民がかねてより不満を持っていたことや、さらには都に近い為に新時代に何かをしなければいけないと血気に逸る若者たちがすぐに集まりやすかったことなどが理由に挙げられます。
その上、当時日吉大社の社司であった樹下茂国は新政府の神祇事務局に務めていました。
要するに十分すぎる燃料に火の付きやすい着火剤、そこにいち早く火種が放り込まれたのです。
それ故に、非常に激しい仏教排斥運動となり延暦寺では多くの経典や仏像などの寺宝が焼かれたり持ち去られたりしました。
また、日吉大社においても仏教色を排除しようとした痕跡が今でも多く残ります。
例えば、今は参道に並ぶ石灯篭は元々延暦寺によって日吉大社境内に建てられていたものでした。
それを放り出した上に、彫ってあった日吉の神々の仏教的な名前を埋めてしまう徹底ぶりです。
他にも神輿の神鏡にもその様な名前が彫られていましたが、こちらは削り取られています。
さらに、こうした物証が残りやすい物質的なものだけでなく、精神的な面である祭神や祭祀にまでその影響が及びました。
これが実に厄介で、痕跡が残り難い為にどこがどの様に変化したのか追い難くなっています。
そのため、日吉大社の歴史を考える際にはこの点に注意を払う必要があります。
なお、今では日吉大社で延暦寺の僧侶により山王礼拝講などが行われるなど、全く別々の組織にはなりましたが関係はいい感じに続いているようです。
まとめ
日吉大社は近江を代表する古社として長い歴史を持つが故に、その歴史は実に複雑です。
何故こんなに多くの神が祀られているのか、天台宗との関係はどうだったのか本当に難しい事柄が多くあります。
ただ、その複雑さの背景にはそれだけ多様で深い歴史、物語があるとも考えられるでしょう。
そのため、日吉大社は近江の中でも最も語りたくなる古社とも言えるのです。
この物語をなるべく多く細かく知っていきたい、そう思わせる強い魅力が日吉大社にはあります。