滋賀、昔の名で言うなら近江は道の国と言われるだけに様々な地域の影響を受けてきました。
そのため、近江の歴史や文化にはそれらの痕跡が今に残ります。
また、その時代と共に積み重なった影響を紐解いていくと、より広範な日本文化や歴史にも繋がる面白さもあるのです。
その中でも大きなものの1つが、奈良、平城京や南都との繋がりでこれらはより古くからの交流がありました。
特に東大寺関連のお話は本当によく残っていて、深いつながりを感じられます。
例えば東大寺の建材として甲賀の材木が使われた様に、中央政権は古くからこの地域との関わりを持っていました。
それもあって、金勝寺や飯道神社など奈良に縁のある古社寺がこの辺りには多くあるのです。
ちなみに、大仏建立の詔が最初に出されたのは紫香楽宮でした。
また、東大寺での大仏建立に際して良弁僧正が石山の地にて鍍金の為の黄金が得られる様に祈った伝説もあります。
そして、祈願が果たされたので念持仏を岩から動かそうとしても動かない為、草庵をそこに建ててお祀りしたのが石山寺の始まりとされるのです。
時代が下り南都焼き討ちからの復興が始まる頃には、今度は多賀大社と重源のお話が出てきます。
これは重源が復興を命じられた時、既に60歳を超えていたため無事務めを果たせるよう延命長寿を願ったという伝説です。
この話は伝説ということにはなっていますが、多賀大社のすぐ近くの水沼荘が東大寺の荘園となっていました。
さらに、そこにあった敏満寺に五輪塔や仏舎利など重源ゆかりの宝物が寄進され、今は胡宮神社に伝わっています。
こうした繋がりもあるので、重源が多賀大社を訪れていたとしても全く不思議ではないでしょう。
この様に様々な事物が残っている上、祭りの形でも繋がりを感じられるものが伝わっています。
それが、湖北により集中して残るオコナイという祭りです。
このお祭りは、おそらく東大寺の修二会の影響を受けたものであろうとされます。
ただ、オコナイと一言で言っても内容が村ごとに大きく異なり、パッと見ただけでは同じ祭りとは思えません。
なので、影響の度合いや受け方も様々なのかもしれません。
そもそも、修二会も仏教の悔過行事を核に神道や密教など様々な宗教行事が複合して出来上がった非常に複雑な法会です。
よく言われる「お水取り」が分かり易い例で、これは法会中に行う儀式の1つを元々は指していて神道的要素の強いものになります。
こうした複合的な祭りだからこそ、より多様な変化を遂げたのかもしれません。
この様に滋賀には今も奈良とのつながりが多く残るのですが、そのままではなく独自の展開をした文化になっていたりするのも興味深く面白い点です。