明治より始まる日本の近代化は、文明開化など日本が豊かになっていく良い印象を持たれることが多いかもしれません。
しかし、それまであった日本文化にとっては試練の時代でもありました。
むしろ、今現在見聞きする日本文化はこの頃に定式化されたものが少なくないのです。
つまり、それまでのものと今に伝わる日本文化では明らかな違いがいくつも見られます。
中でも大きな変化を生み出した要因の1つが、廃仏毀釈という全国各地で起きた大事件です。
この事件は、明治政府が出した一連の通達である神仏分離令を発端として全国各地で同時多発的に起こりました。
ただし、それぞれの騒動を主導した人物も起きた経緯や出来事も全国各地で様々と、非常に複雑で総じて言うことが難しい事件です。
なので今回は結果だけ言うと、これによって神様と仏様が混じり合う神仏習合から、神道と仏教とより明確に分かれた今現在の形になりました。
そして、その影響が今でも各地で見られ、滋賀においてもやはり見つけることが出来るのです。
例えば日吉大社と延暦寺は極めて苛烈な仏教排斥がなされた場所で、廃仏毀釈が最初に起きた場所としても知られています。
これにより延暦寺では多くの仏像や仏典などが焼かれ、日吉大社でも神輿の鏡に刻まれた仏教的な名前が削られるなど徹底して仏教色を排除したのです。
こうした破壊活動が行われる一方で、仏像達を守る動きもありました。
その1つが多賀大社で、確かに境内に多くあった仏教に関する建築物が失われるなどしましたが、仏像の一部は周辺の寺院に移され生き残っています。
また、鐘楼が境内に今もありますがこれは大きすぎて引き取り手がつかなかったからだそうです。
この様に廃仏毀釈と言っても、その内実は滋賀県内だけでも様々に異なります。
今回上げた日吉大社と延暦寺、多賀大社の事例も実の所ほんの一部分にすぎません。
知れば知る程に様々な面が見えてくる、それ故に廃仏毀釈は非常に理解が難しいのです。
そもそも、記録が余り残されていなかったりもします。
そのため、こうした最早断裂と呼ぶべき変化があったことを知っておくことが重要です。
今ある風景がそのまま昔につながるのではなく、もしかしたら大きな違いがあるのかもしれない。
そう頭に止めておけば、見逃さず気づけることが増えるのではと思うのです。