湖国探遊記

滋賀の歴史や文化を中心に、たまにそれ以外も

琵琶湖は近江の歴史や文化にどう関わっている?巡って感じた4つの機能

琵琶湖は近江のど真ん中に、ただ鎮座するだけではありません。

例えば滋賀のあちこちを巡っていると、その影響をより強く感じます。

 

つまり、近江の歴史や文化を語る上で琵琶湖はまず欠かせない存在なのです。

それこそ、近江だけにとどまらない影響力を持っています。

 

そんな琵琶湖が持つ機能を、今回は次の4つに分けてまとめてみました。

  • あちらとこちらを繋ぐ機能
  • 日々の糧をもたらす機能
  • 信仰の場としての機能
  • 緩衝地帯としての機能

また、それぞれ関連する歴史や文化も具体例として紹介しています。

あちらとこちらを繋ぐ機能

この機能には、近江の位置、都が奈良でも京都でもすぐ東にあり日本の中程を大きく占めていることが強く関わっています。

つまり、都から東、北陸や東国などへと向かうなら基本的に近江を通らざるを得ないのです。

 

これは地図からも明らかで、日本列島が近江辺りでキュッとくびれています。

そのため、北陸道中山道東海道など主な街道が束ねられる様に近江を抜けているのです。

 

そして、それらの街道は湖上交通と深く結びつき、より多くの人や物が行き交うことになりました。

 

例えば滋賀では大津や海津など、港を意味する津が付く地名が今も残されています。

その中の1つである塩津の塩津港遺跡では近年大きな発見があり、神社の跡や起請文を書いた木簡などが発掘されました。

これらは塩津が、主に北陸と都を結ぶ中継地として大いに賑わっていたことを示す貴重な資料です。

 

また、近江の中で生み出された様々なものも都へと沢山運ばれました。

 

その痕跡の1つとして、大津の石山寺には天智天皇の石切り場と呼ばれる場所があります。

これはそこから切り出された石が奈良まで運ばれ、川原寺に使われたというのです。

実際、その場所には明らかに切り出した跡があり、川原寺の跡にはここらで産出されたとされる礎石が残されています。

 

他にも田上山や甲賀などからの木材が、奈良の都や寺の造営で使われてきました。

そして、これらの石材や材木は琵琶湖から瀬田川を下り、巨椋池に出てからは木津川を遡って奈良へと運ばれたのです。

あるいは、大阪湾まで出て大和川を遡った可能性もあるかもしれません。

さらに、こうした瀬田川を使った物流は京都に都が移った後も続きます。

 

また、こうした各地とのつながりは反対に近江にも多くのものをもたらしました。

それには物質的な富だけでなく、風流踊りや曳山を始めとした都由来の文化なども含まれます。

中でも有名な長浜曳山まつりは、特産の生糸などの繊維産業による巨万の富が深く関わり、特に都との交易には湖上交通が大いに寄与しました。

同じ舶来もののタペストリーを切り出した見送幕が京都の祇園祭と長浜の曳山で使われていることは、それを示す興味深い事例です。

 

もちろん、文化そのものが湖上を通り伝わったかは分かりません。

それでも、琵琶湖が紡いだつながりが関わったとは言えるでしょう。

 

ただ、その大きな恩恵故に良いことばかりではなく多くの争いももたらしました。

例えば戦国時代は、織田、豊臣、徳川と天下人達が皆この地を治めるのに腐心しています。

なので、琵琶湖の重要な港には城が築かれることになりました。

それらは長浜城、大津城、八幡山城彦根城など、今の町並みの原型となっています。

 

要は、良くも悪くも琵琶湖は都における東玄関前の運河として機能してきたのです。

日々の糧をもたらす機能

琵琶湖の恵みでまず挙げられるのは、コイやフナ、セタシジミなどの魚介類でしょう。

 

これらははるか昔から食べられており、縄文時代貝塚からも沢山見つかっています。

そんな貝塚の中でも、湖の南端、瀬田川との境界が曖昧になる辺りにて広がる粟津湖底遺跡は淡水湖の貝塚として日本最大です。

こうした大きな貝塚が生まれたことからも、多くの人がこの恵みに惹きつけらた歴史が伺えます。

なお、カロリーベースで考えると木の実の類の方がより多く食されていたそうです。

 

そして、こうした琵琶湖産の食材は今の食文化にも引き継がれ活かされています。

鮒ずしや佃煮類、魚介類以外では北から渡ってくる鴨を使った鴨鍋も絶品です。

 

そうした食材以外にも、琵琶湖が近畿の水がめとも呼ばれるように水自体も重要な恵みです。

 

ただ、近江における琵琶湖の水の利用は一筋縄ではいきません。

細かい理由はいくつかありますが、根本的な難点は琵琶湖が滋賀県の中でも低い所にあることです。

おおよそ茶碗の真ん中に水が溜まっている具合で、水は上の方へと自然には流れません。

沿岸部ならば人力でも上げられなくはないですが、凄く大変な上にままならないことも多いそうです。

そのため、田畑に使う水は湖にそそぐ沢山の川から引いていることが多く見られます。

あるいは、ため池や湧き水も活用されてきました。

 

しかし、近代化とともに動力装置がもたらされると琵琶湖の水がより活用されるようになります。

県内各地で行われる、湖から取水し田畑にて使った後は川に流し再び湖に戻す逆水灌漑もその1つです。

 

また、逆水灌漑ではありませんが近代化を象徴する事業の1つに琵琶湖疏水があります。

これは単に京都へ琵琶湖の水を引いただけでなく、水力発電の動力にもなりました。

 

この様に琵琶湖は、その時代それぞれに様々な形で日々の糧をもたらしてくれているのです。

信仰の場としての機能

近江を巡ると琵琶湖が聖地そのものになることや、神話の舞台として語られることが多く見られます。

厳密にはより複雑で重なりもしますが、今回はこの経験を元に次の2つの場合を紹介します。

  • 琵琶湖が神話の舞台となる場合
  • 琵琶湖そのものが聖地になる場合

1つ目として、日吉大社山王祭兵主大社の八ヶ崎神事が有名です。

いずれも創建伝説を神事の形で再現しており、その中に琵琶湖を通って来訪された神様を迎える場面があります。

細かく見ていくと2つの神事は神様から神事まで諸々違いますが、琵琶湖を通ったという根本的な部分が共通しているのが興味深いです。

 

次に2つ目の場合だと、やはり竹生島の弁財天信仰が挙げられるでしょう。

この弁財天は日本三弁財天に数えられ、その中でも特に古いものとされています。

さらに、滋賀のお寺を巡っていると竹生島の特徴を持つ弁財天像を見かけることも多いです。

 

また、琵琶湖を模した池などに弁財天を祀る小島が作られることもよくあります。

例えば東京の不忍池にも、やはり弁財天が祀られています。

 

そして、これら2つの場合を広い目で見ると前述した琵琶湖の機能を反映している様で興味深いです。

琵琶湖との関わりの中で信仰文化も育まれてきた、そのことを改めて感じます。

緩衝地帯としての機能

さて最後の機能とは、都の中央政権に対する勢力、北陸やら東国やらとの緩衝地帯に近江全体がなっていたのではないかというものです。

これについては、全くの推測でしかありません。

ただ、近江を巡っているとそう感じるのです。

 

また琵琶湖の他に、次の2つの要素も関わります。

  • 近江をぐるりと囲むそこまで高くない山
  • 山と湖に挟まれたそれほど広くはない平地

まず諸勢力が直接ぶつかり合わないことが肝心で、その役割を琵琶湖と近江を囲む山が担います。

要は、緩めの隔たりになったと考えられるのです。

例えば琵琶湖は船があれば行き来できますが、逆にそれがなければ難しくなるでしょう。

さらに山はそれほど高くはないので超えられなくはないのですが、平地の様にはいきません。

この様に交流を断つ程では無いものの、近江の外も内も自由に行き来できるわけではないのです。

 

それから近江は平地が少なく、大きな都を作るには不向きな土地でした。

これは近江自体にて強大な勢力が生まれなかった、あるいは定着しない一因かと思われます。

 

これらのことから、次の2つが考えられるでしょう。

  • 衝突を避けつつも交流を断つほどではない為、独立勢力にならない程度の関係を構築できた。
  • 近江自体に強大な勢力が育ちきらなかった為、諸勢力が互いに存続できた。

これらについて、明確な確証はありません。

歴史は様々な要因が重なって紡がれるので、これで全てを語れることもないでしょう。

しかし、それこそ琵琶湖が平地や山であれば日本の歴史や在り方は大きく違ったと思えるのです。

琵琶湖はかなめ

やはり琵琶湖は、近江の歴史や文化のかなめであることは間違いありません。

 

これは、近江というまとまりが出来てからほとんど形を変えずにきたことにもよく表れています。

それぞれ地域に個性があるものの、琵琶湖の恩恵をいずれも受けてきたことが共有されているのです。

 

その様な琵琶湖の大切さを改めて思い返しながら、今年もあちこち巡れればと思います。

安土駅から安土城考古博物館まで徒歩での行き方-写真とちょっとした観光案内付-

安土城考古博物館は、残念ながら滋賀県でも行きにくい方の博物館でしょう。

公共交通機関がほぼなく、基本的に安土駅から徒歩しかない上にそこそこ離れているからです。

レンタサイクルを借りる手もありますが、ゆっくりと見学するのなら貸し出し時間が長くなり少し悩ましいお値段になります。

 

なので、やはり博物館へ行くなら徒歩が基本です。

幸い道は平坦ですし、道順も全く難しくなく迷う可能性はほとんどありません。

 

グーグルマップにて距離を測ると2.1㎞、歩行時間は26分です。

私が実際に歩いても、大体30分くらいで着くので体感でもその位かと思います。

 

ちなみに、安土駅にはレンタサイクルは3軒あり値段は以下の通り同じのようです。

また、電動自転車なども値段が上がりますが借りられる所もあります。

軽快車:2時間500円、3時間700円、5時間以内1,000円、延長1時間ごとに300円

 

さらに、安土城考古博物館のホームページ中にあるアクセスマップの項目で100円引きの割引券を入手できます。

なお、2時間を超えること印刷して持って行くことが条件なので気をつけてください。

私もスマホで表示すればいいかと勝手に思い込み、断られたことがあります。

安土城考古博物館までの徒歩での道順

安土駅の改札は1つなので迷うことはありませんが、出てすぐにこの道順で最もややこしいものがあります。

それが下の看板で、見ると安土城考古博物館は左とありますが徒歩なら北口の右が正解です。

改札口すぐの案内板

北口には織田信長の像や観光案内所があるので、それらを目印にするといいかもしれません。

北口を出てからは、まず線路沿いを能登川方向に歩いてください。

目的地へはこの方向

この線路沿いを能登川方向というのが博物館がある大体の方向なので、意識しておくと道が分かり易いかと思います。

 

そして、ここで必ず確認して欲しいことが水分の確保です。

駅周辺には写真の様に自販機がありますが、ここが飲み物を確保できる最後の機会になります。

水分の確認を忘れずに

ここ以外に道中にも博物館にも自販機は無いので、買い逃すと本当にやばいです。

もちろん、博物館には喫茶店があるので一服できます。

ただ、博物館への道中には日差しを全く遮るもののない極めて暑い道がずっと続きますので水分を持ち歩く方が安全です。

特に夏場は本当に暑く危険ですので、何処でもいいのでとにかく水分を確保することを本当に強くお勧めします。

ちなみに、トイレも道中にはありませんので気をつけてください。

 

さて、水分の確認を終えたらそのまま駐在所やお寺の前を通る線路沿いの道を進んでください。

すると突き当りに博物館の看板がありますので、その通りに曲がります。

左に曲がってください

左を曲がってすぐ、次の丁字路を今度は右です。

ここにも看板がありますし、お地蔵様方も目印になるかと思います。

右に曲がってください

ここから住宅街で人が写りこみやすいので写真は差し控えますが、少し坂を下った突き当りを左次の丁字路を右に行けば直ぐに抜けられます。

そこまで大きな住宅街ではないので、先に見える写真の高架下を目指すと簡単です。

この高架下を進みます

さらに、この高架下をくぐりそのまま両側に田んぼが広がる道を進んでください。

さて、ここまでくるともう後は簡単で実はこの時点で遠くに特徴的な建物の博物館が見えます。

見えている通り遠いですが頑張ってください

つまり、とにかくこの田んぼの道を突っ切りどん突きまで行った後に右に曲がり線路を超えるのがこの後のざっくりとした道順です。

 

そんな道案内もいらない様な場所なので、一見すると何もないように見えるかもしれません。

しかし、実はこの風景には歴史的に非常に重要なあれこれが詰まりに詰まっているのです。

実は歴史豊かな安土のパノラマ

まず、右手に見える山は繖山で今は観音正寺がありますが、かつては観音寺城が聳えていました。

ちなみに、観音正寺を押しのけて観音寺城が出来、城が無くなってから寺がまた山の上へと戻ったというのがおおまかな歴史の流れになります。

そんな観音寺城を築いたのが六角氏で、一族の六角定頼を天下人に見なす人がいる程に戦国時代の初め頃は絶大な権力を誇っていました。

実際、その権力を恐れて時の将軍から討伐軍を出されたこともあります。

一方で将軍が都を追われた際にはかくまうこともあり、同じく繖山にある桑実寺にて一時期臨時の幕府がおかれる形にもなりました。

 

しかし、六角氏の権勢は家臣の統制が効かなくなることで弱体化していき、最後は織田信長に城を追われ甲賀に落ちのびるもその後はかつて程の活躍はしていません。

そして、その織田信長が後に築いたのが左手に見える安土山の安土城です。

なお、現在は織田信長菩提寺とされた摠見寺の境内に含まれています。

 

こうして実際に見ると、随分近い所にお引越ししたことが分かるでしょう。

また、山を見ても安土山の方が小ぶりで城としては観音寺城の方が強く見えるかもしれません。

 

なので、何故信長はそれでも安土城へと移転したのかが1つの疑問として浮かびます。

その理由としてまず挙げられるのが、湖上交通の支配強化です。

今は周りに田畑が広がるばかりで分かり難いのですが、かつての安土山は琵琶湖の内湖に突き出た半島状でした。

そのため、琵琶湖から安土城へは船で乗り入れることも可能な程琵琶湖に近かったのです。

 

ただ、それらの内湖は戦後の食糧難などもあり干拓され今はほとんど消えてしまいました。

けれども塞翁が馬と言いますか、その際に大中の湖南遺跡が発見されたのです。

この遺跡は、特に弥生時代の農耕集落を知る上で重要な手がかりをもたらしてくれました。

 

さらに、同じく考古関連の遺跡として近江三大古墳と評される安土瓢箪山古墳という前方後円墳があります。

こちらは繖山の尾根が分かれて伸びた先っぽにあり、近江の古墳時代を語る上で欠かせない遺跡の1つです。

あるいはヤマト王権とのつながりも考えられるので、その観点でも重要とされます。

 

ただ残念ながら大中の湖南遺跡は安土山の向こう側、安土瓢箪山古墳は住宅街に囲まれている為、ここからではよく見えません。

 

そして、観音寺城安土城大中の湖南遺跡安土瓢箪山古墳、これら4つを博物館では主なテーマとして扱っています。

何れも近江だけでなく、日本の歴史の中でも大切になる史跡達です。

 

さて、これでもかなりざっくり簡単にまとめたのですが話が長くなってしまい申し訳ありません。早速道案内に戻ります。

それで田んぼの端まで来たら、用水路を超えて次はに線路へ向かって進んでください。

ここを右です

ちなみに、用水路の左側はかなり自然なままですがここは安土城の堀の名残りとされます。

よく見ると安土山の尾根方向と平行に進んでおり、当時の面影を感じられるかもしれません。

何気ないですがかつては堀でした

さらに、曲がった後はそのまま線路をくぐり次の交差点まで進んでください。

すると、目の前にいくつか建物が見えるかと思いますが一番左の建物が安土城考古博物館です。

ここを左に曲がればもうすぐです

そして、その交差点を左に曲がりひたすら道なりに進むと博物館につけます。

途中右に曲がる上り坂辺りで飛び出し坊やがお出迎えしてくれていたり、次回の催し物の案内板があるので目印になるでしょう。

安土城考古博物館

長い道のり本当にお疲れさまでした。

先の歴史の話は本当に簡単なものなので、ぜひ博物館でじっくりと調べてみてください。

安土城考古博物館がリニューアルの予定らしいけど考古部門はどうなるの?日の目を見なくなることの怖さ

安土城考古博物館にて、どうやらリニューアルをする計画が進められている様です。

実際は去年の頭には話がまとめられていたのですが、最近になりようやく知ったのでこんな時期に書くことになりました。

 

ただ、これほど遅くなっても書きたくなる様な内容だったのです。

もちろん全くダメな訳ではなく、むしろ納得できる部分も多い計画ではあります。

 

ならば何が気になったのかというと、今まで安土城考古博物館が行ってきた考古部門の展示が無くなってしまうことです。

これも理由は理解できるのですが、それで良いというものでもありません。

 

つまり、重要な考古資料たちなのに日の目を見れる機会がぐっと減ってしまうのです。

この問題はやはり大きいと考えられるので、今回はそれについて少し考えてみます。

 

なお、本計画について詳しくは下記の滋賀県のホームページにて確認してみてください。

滋賀県立安土城考古博物館展示基本計画|滋賀県ホームページ

リニューアルは間違いなく必要で、分野を絞るのもまあ納得できる

まず、安土城考古博物館がリニューアルを必要とする理由として私自身の中では次の2つの問題が大きいです。

  • 博物館の設備や展示内容が古くなっている
  • 展示する内容に対し展示場所が圧倒的に狭い

安土城考古博物館は昨年30周年を迎え、やはり施設のあちこちが古くなっています。

例えばLED化も進んでおらず、依然として蛍光灯を使用し続けているといった具合です。

さらに、展示内容についても一応の更新はしているものの抜本的な刷新はされてません。

こうしたことからそろそろ施設全般を更新しなければいけない時期に来ていることはまず明白で、むしろちょっと遅いくらいにも思えます。

 

次に問題なのが、安土城考古博物館の狭さです。

これは開館当初から言われていたと思いますが、実際に行くと展示の内容に釣り合っていない様に感じられます。

 

そもそも安土城考古博物館は、近隣の史跡に関する次の2つのテーマとそれらに関連する特別展、企画展を年に4回行う博物館です。

弥生から古墳は非常に長い歴史がありますし、観音寺城から安土城までにも細かく語るべきことが沢山あります。

それらに対して安土城考古博物館には、これら2つの展示と特別展や企画展にそれぞれ1部屋ずつの3つの展示室しかありません。

もし展示室が十分に大きければいいのですが、それほど広くはないのです。

 

なので、今回の常設展を戦国部門に関するもののみにする選択も納得できると言えばできます。

中途半端に2つを展示するよりも1つに集中してしっかりと詳しく丁寧な展示にする、これはこれで筋の通った話です。

 

ただ、その場合考古部門はどうするのかがやはり大きな問題になってしまいます。

問題は考古、本当に企画展やホールの展示だけで大丈夫なのか

先程の考古部門の常設展が無くなることに対して、リニューアルの計画では主に次の2つの対策を掲げています。

  • エントランスホールで史跡の紹介や速報展示などを行う
  • 企画展にて史跡を案内する機能を強化する

ただ、どちらの対策でもやはり不十分なのではないかと思われます。

そもそも、今までの1つの展示室を使った常設展でも物足りないものがありました。

それなのに、より狭い場所や期間が限られる場所にしては状況を悪化させるだけです。

 

なので、結局これらの方法では史跡の歴史的な位置付けや特徴を語るのに不十分なのではないかと考えられます。

例えば実際の考古資料を用いることは大事ですが、特にエントランスホールでは展示できる場所は限られてしまうでしょう。

 

また、企画展の役割にはまずは常設展が基本としてあり、それを発展させたり補ったりする展示を行うのが普通です。

そのため、企画展を主軸に据えることはどうしても違和感を覚えます。

 

こうしたことから、もう少し考古部門の扱いを考えて直して欲しいです。

 

しかし、そうは言っても他に手立てが無さそうでどうしようもありません。

展示施設を増やすことは難しいですし、戦国部門に集中したい理由も分からなくもありません。

先に挙げた理由の他にも、最近では入館者も減っているので人気のある戦国時代に集中したいのは懐事情を考えると避けては通れない問題です。

 

それでも、博物館の役割を考えるとやはり良いとは思えません。

今の価値観によらず分け隔てなく資料を収集し保管し公開していく、これがまず基本です。

 

そのため、難しいとは思いますが何かしらの手立てを見出して欲しいと思います。

例えば、計画される琵琶湖文化館の後継施設にて展示することも1つの方法かもしれません。

今の場所より離れすぎていたり、館の主旨に沿うのかだったり、展示の場所があるのかだったり、課題は沢山考えられるでしょう。

はっきり言って、素人考えだとは思います。

それでも、日の当たる場所が無くなるよりはましではないかと思うのです。

日の目を見る大事さ

文化財にとって日の目を見ることは、その価値をより広く知ってもらい守り受け継いでいくために欠かせません。

公開することで傷つく可能性などもありますが、誰にも知られなくなれば元も子もなくなります。

 

例えば大阪府咲洲庁舎の駐車場で、美術品がずさんな管理のままにずっと放置されている問題が最近取りざたされていました。

他にも、国立科学博物館クラウドファンディングをせざるを得なくなった根本にも関心を持たれなくなる危うさが同じく見て取れるでしょう。

こうした実態を聞くと、やはり一般に公開することは極めて重要だと改めて考えさせられます。

 

なので、安土城考古博物館の考古資料たちにも間違いなく光が当たり続ける場所が必要です。

それこそ出来れば今まで以上にとも思うのですが、少なくとも現状と同等くらいはと思います。

よく分からないので日吉大社の歴史を4つの時代に整理してみた

日吉大社は滋賀、あるいは近江を代表する古社の1つに数えられます。

その歴史は実に古く、古すぎるがゆえにはっきりとした始まりが分からない程です。

 

また、始まりがはっきりしないだけでなく、長い時の中で波乱万丈、紆余曲折、栄枯盛衰、本当に様々な出来事が巻き起こりました。

なので、近江の古社寺の中でも日吉大社の歴史はかなり難解です。

ただ、この大社は近江だけでなく日本の歴史にも深く関わるので無視することも出来ません。

 

そこでこの大社の歴史を学ぶにあたって、まずは歴史を大きく区分することから始めてみることにしました。

つまり、次の4つに分け一先ずの整理と方向性の確認をしようとする次第です。

そして、今回はこの4つの時代区分の簡単な説明と手掛かりとなりそうなものを紹介しします。

古代祭祀の時代

日吉大社の始まりがはっきりしない理由は、まずこの時代があるためです。

例えば文献では古事記にて日枝の山大山咋神(おおやまくいのかみ:日吉大社の東本宮の祭神)が祀られている記載はあるのですが、それだけの情報しかありません。

あとは正直、史実なのか伝承なのか微妙な所です。

 

つまり、今の日吉大社が成立する前段階の時代と考えられます。

別の言い方をするなら、今の日吉大社がある場所が聖地となった時代と言えるでしょう。

 

しかし、何故神話の様なのにその時代があると言えるのかというと、日吉大社に例えば次の痕跡、あるいは手掛かりが残っているからです。

  • 日吉古墳群日吉大社の境内に約70基もある6世紀中頃から終わりの古墳群
  • 金大巌(こがねのおおいわ):日吉大社の神体山である八王子山にある磐座
  • 樹下宮にある井戸:古代祭祀に使った井戸と考えられ、後にその上に社殿が作られた

こうしたことから、古墳群を築いた氏族が磐座のある八王子山を聖地とし、麓にて井戸の水を汲み古代祭祀を行っていたことが想像されます。

ちなみに、古墳の特徴から渡来系の氏族が築いたと考えられているそうです。

 

そして、この様な古代祭祀の信仰が萌芽となり後の日吉大社へと繋がっていきます。

初めてよその神仏が入ってきた時代

今の日吉大社の大きな特徴として、実に様々な神が同居していることが挙げられます。

つまり、小さな祠があるだけでなく1つの神社として独立できそうな社が並び立っているのです。

 

こうした日吉大社の特色が生まれた端緒が、この時期ではないかと考えられます。

それまでは恐らく氏神を祀るだけだったのが、また別の神仏も同時に祀るようになったのです。

 

その神仏の内、まず時期がより絞れるのが大神神社の祭神である大己貴神で、天智天皇が667年に大津宮へ遷都した翌年に都の鎮護の為に勧請されたと伝わります。

ただ、具体的に誰がどの様に動いたかは分かりません。

天智天皇自身が勧請したのか、あるいは別の誰かなのかは不明です。

それでも、勧請できたことから日吉大社にかなり有力な権力者がいたことはうかがえます。

 

次に神仏の内、今度は仏、つまり仏教が入ってきた時期ですがこれははっきりしません。

しかし、例えば751年に成立した懐風藻にある麻田連陽春の漢詩藤原武智麻呂比叡山に宝殿を建てたことなどが記されています。

そのため、これ以前には比叡山の辺りにも仏教が入ってきていることがうかがえるのです。

 

中でも大津宮に関連する仏教政策が、どの様に影響を及ぼしたのかが重要な手がかりです。

つまり、白鳳時代にかけてこの地域に広まっていったことが考えられます。

 

ただし、この頃の古代寺院の遺構は坂本でははっきりとは見つかってはいません。

それでも坂本廃寺からは瓦などが見つかっており、白鳳寺院があった可能性は指摘されています。

 

なので、一先ず仏教がこの辺りで信仰されていたのはうかがえるのですが、ここで問題となるのは日吉大社との関係性がどうであったかです。

どんな関係だったのか、同じ集団に信仰されていたのか、気になる点が沢山あります。

 

これに関しかなり興味深い事柄が、最澄の父である三津首百枝が八王子山中で草庵を結び参篭した伝説です。

これは子供を授かる為のもので、この願いが通じ生まれたのが最澄であり、それ故に最澄日吉の申し子などとも呼ばれています。

 

また、その場所として有力視される日吉神宮寺遺跡も八王子山中で発掘されました。

遺跡は10世紀から11世紀のものですが、その下にも遺構がある可能性を示すものも見つかっており創建期は9世紀前半まで遡るかもしれません。

なので、三津首百枝の草庵が神宮寺に発展したというよりは、元々あった神宮寺に参篭したことも想像されます。

もちろん、あくまで想像の範囲を出ない話ではあります。

 

ただ、八王子山で参篭したことからこの頃には日吉大社と仏教が近くにあったと考えられます。

少なくとも、人々の間ではそれぞれの信仰が同居していた状況は見て取れるでしょう。

それ以上の具体的なことは残念ながらまだまだで、これから調べてみたい事柄です。

 

そして、何れにしてもそうした神仏が同居するこの地域だからこそ、最澄による新たな神仏習合の段階に進む礎になったことは間違いありません。

天台宗神仏習合の時代

日吉大社の歴史の中で最も長く、今に続く日吉大社の形が整っていったのがこの時代です。

最澄山王権現として護法善神に位置づけた平安時代の初めの9世紀初めから、廃仏毀釈が起こる明治初めの19世紀の終わりまでおよそ千年の長きにわたります。

余りに長いので、この時代の中でも分けた方が良いかもしれません。

 

そして、この時代を読み解く上で欠かせないのが天台宗との関係です。

この時代は天台宗、もしくは延暦寺と連動しながら歴史が紡がれることが多くなります。

 

例えば日吉大社の分社が全国に広まったきっかけも、天台宗が全国へ布教する中で護法善神として一緒に祀られることが多かったからです。

なので、今でも日吉大社系の神社があれば近くに天台宗のお寺があったりします。

もし今は違う場合でも元天台宗の可能性もあり、歴史を考える手掛かりになるでしょう。

また一方で、そうした天台宗の全国展開による繋がりが日吉大社に多くの神が集まる要因の1つになったのかもしれません。

 

ただ、実際に天台宗日吉大社の関係を読み解くのはかなり難しいことに感じます。

まだまだ私もほんの触りぐらいの所なのですが、それでもこれ以上どう進めばよいのかかなり頭が痛いです。

 

そこでまずは天台宗の歴史をさらいつつ、その中でどう日吉大社が関わったのか調べながら全体の流れを把握することから始めようかと今は思っています。

正直、今の段階では断片的な知識だらけで整理することすらままならない状態です。

 

しかし、それでもまずは日吉大社の歴史全体の流れを整理しようと思い筆を進めてみました。

この流れの中で何がどの様に位置づけられるのか、大づかみですが一旦整理してみようかと考えた次第です。

廃仏毀釈以後の時代

さて、最後の時代は現代まで続く区分で先程までの長く長い神仏習合の終わりから始まります。

それは明治の始まりに勃発した延暦寺日吉大社が決定的に袂を分かつことになった事件であり、延暦寺にとっては信長の焼き討ちに並ぶ事件でもある廃仏毀釈です。

 

この廃仏毀釈が起こるきっかけとなったのが明治元年(1868)3月半ばから出された一連の法令で、今ではまとめて神仏分離令と呼ばれています。

これは仏教色を排除したより純粋な神道によって天皇を中心とした祭政一致の国家体制を確立し、ひいてはその高めた権威で中央集権体制を盤石にすることを狙ったものでした。

 

ただし、明治政府が出した一連の法令は今に伝わる様な破壊行為を命じたものではありません。

つまり、破壊行為はそれらを拡大解釈した者たちによって行われました。

そのため、廃仏毀釈の有様はその土地ごとの事情により極めて大きく異なり一概にこうだったとは言えません。

 

日吉大社の場合は残念ながら特に苛烈なもので、さらには廃仏毀釈の火が最初に燃え上がった地とされています。

これは延暦寺の支配体制に日吉大社や周辺の住民がかねてより不満を持っていたことや、さらには都に近い為に新時代に何かをしなければいけないと血気に逸る若者たちがすぐに集まりやすかったことなどが理由に挙げられます。

その上、当時日吉大社の社司であった樹下茂国は新政府の神祇事務局に務めていました。

要するに十分すぎる燃料に火の付きやすい着火剤、そこにいち早く火種が放り込まれたのです。

 

それ故に、非常に激しい仏教排斥運動となり延暦寺では多くの経典や仏像などの寺宝が焼かれたり持ち去られたりしました。

また、日吉大社においても仏教色を排除しようとした痕跡が今でも多く残ります。

例えば、今は参道に並ぶ石灯篭は元々延暦寺によって日吉大社境内に建てられていたものでした。

それを放り出した上に、彫ってあった日吉の神々の仏教的な名前を埋めてしまう徹底ぶりです。

他にも神輿の神鏡にもその様な名前が彫られていましたが、こちらは削り取られています。

 

さらに、こうした物証が残りやすい物質的なものだけでなく、精神的な面である祭神や祭祀にまでその影響が及びました。

これが実に厄介で、痕跡が残り難い為にどこがどの様に変化したのか追い難くなっています。

そのため、日吉大社の歴史を考える際にはこの点に注意を払う必要があります。

 

なお、今では日吉大社延暦寺の僧侶により山王礼拝講などが行われるなど、全く別々の組織にはなりましたが関係はいい感じに続いているようです。

まとめ

日吉大社は近江を代表する古社として長い歴史を持つが故に、その歴史は実に複雑です。

何故こんなに多くの神が祀られているのか、天台宗との関係はどうだったのか本当に難しい事柄が多くあります。

 

ただ、その複雑さの背景にはそれだけ多様で深い歴史、物語があるとも考えられるでしょう。

そのため、日吉大社は近江の中でも最も語りたくなる古社とも言えるのです。

 

この物語をなるべく多く細かく知っていきたい、そう思わせる強い魅力が日吉大社にはあります。

野洲駅から銅鐸博物館まで歩いてみた-写真とちょっとした観光案内付きの道順ー

野洲市歴史民俗博物館、通称「銅鐸博物館」はその名の通り銅鐸を中心とした展示をしている一風変わった博物館です。

また、地域に関する企画展などを季節ごとに変えて行っていたりします。

さらに、「弥生の森体験学習」として勾玉づくりなどが体験できるそうです。

規模はそれ程大きくありませんが、値段も大人300円と高くないですし銅鐸を中心とした展示は中々ないので気軽に立ち寄ってみるのも良いかもしれません。

(入場料やバスの料金は2023年5月31日時点のものです)

 

ただ、そうなってくると気になるのが交通費です。

最寄り駅の野洲駅からバスで片道210円、往復420円なので、入場料と合わせて考えると720円ほどかかってしまいます。

こうなると、ちょっと高いかなという気がしてしまうのです。

 

そこで、バス代だけでも節約できないかと野洲駅から徒歩で行ってみました。

今回はそんな道中を、せっかくなので何かの役に立てばと思い紹介します。

距離はグーグルマップで測ると約2.6Km、実際に歩くと時間にして30分強かかりました。

あと、ついでに道中で出会った面白いものについてもちょこっとだけ紹介しています。

野洲駅から銅鐸博物館までの道順

まず野洲駅南口、琵琶湖と反対側の出口を出てください。

野洲駅の案内板

そうしましたら、駅前の大通りを新幹線の高架近くまでひたすら真っ直ぐ行きます。

野洲駅前の大通り

すると高架近くで左手に細い道が分かれていますので、そちらに進んでください。

妙光寺山摩崖仏」、「福林寺跡摩崖仏」の看板が指す方です。

最初の分かれ道

高架下もそのまま道なりに進みます。

高架下の道

この後しばらくややくねくねとした道が続きますが、道なりで問題ありません。

ちなみに、この道は昔の中山道で古い建物もぽつぽつと残されています。

例えば右手に見えてくる稲荷社の鳥居は参道が中山道に面しており、昔から信仰されてきたことが伺えるでしょう。

途中の稲荷社

ただ、この稲荷社の社殿は近くには無くさらに進んだ国道を超えた先に本殿があります。

こうした長い参道を持つことからも、かつては地域の有力な神社だったのかもしれません。

実際、社殿の1つは重要文化財にも選ばれるなど歴史の深さがうかがい知れます。

 

そんな稲荷社を過ぎしばらく行くと少し太めの県道に出るので、ここをに曲がってください。

2つ目の曲がるとこ

なお、グーグルマップで道順を調べるとこの先に進むように示されることもありますが全くお勧めできません。

なぜなら、この後交通量の多い国道を横断する必要があるのに、ここを曲がらないと信号はおろか横断歩道すら無いのです。

つまり、安全の為にもこの先にある信号付きの横断歩道を渡るようにしてください。

そして、国道に出て横断歩道を渡った後は左にそのまま国道にそって進みます。

横断歩道を渡りファミリーレストラン側に行ってください

しばらくすると、国道からそれて伸びるちょっと怪しげな道が右手にあります。

右の舗装されていない道です

国道を行きたい気分ですが歩道がほとんど無く危ないですし、こちらの方が近道なので思い切って進んでください。

それに、多少ぐねぐねした道ですが道なりに進めば迷うことは無いでしょう。

強いて言えば下の写真の所が悩ましいかもしれませんが、やはり左に曲がる道なりです。

途中も道なりです

そうして進んで行くと、左に大きな灯篭がある丁字路に突き当たるので右に曲がってください。

大きな灯篭が目印です

右に曲がれば、すぐ先に「銅鐸博物館」の案内板が見えるかと思います。

なので案内板の通り、また道なりに進んでいただければあと少しです。

 

さらに、この先を道なりに左へと曲がるとすぐ日吉社に出くわしますがここの社殿も1つが重文に選ばれています。

いきなり出くわす日吉社

初めて通った時は何故こんな所にと思い調べてみたのですが、残念ながら今でもこの神社の歴史はよく分かりません。

何れにせよ、滋賀にはこの様に意外な所に意外と重要なものがしれっとあることが多いのです。

そうしたものに出会えるのが、こうして歩く楽しみの1つかもしれません。

 

そんな日吉社を過ぎ林を抜けると、左手に工場やらゴルフ場のネットが見えるかと思います。

それらが見えてくれば目的地までもう直ぐで、丁字路に突き当たった少し左前にある建物が目指す銅鐸博物館です。

通用口へはここを左です

しかし、そこに行く前にちょっとだけ見て欲しいのがその丁字路にある「銅鐸出土跡碑」です。

銅鐸出土跡の碑は記念であって出土した場所そのものではありません

これは、丁度この辺りで「大岩山銅鐸」と呼ばれる銅鐸の一群が見つかったことを記念したものになります。

不時発見だった為に正確な場所は分からないものの、聞き取り調査によりこの辺りとされました。

今はその埋蔵地点だった大岩山も国道や新幹線の工事に伴う土砂取りで消え去り、かつての姿形は全く残ってはいません。

こうした諸々の経緯は、やはり銅鐸博物館が詳しいので是非そこで調べてみてください。

中々に紆余曲折、時代の荒波にもまれにもまれた銅鐸たちの苦難の物語が待っています。

 

さて、ここまで来れば建物裏の通用口から入っていただき正面玄関に回れば到着です。

通用口

お疲れさまでした。ゆっくり楽しんできてください。

銅鐸博物館の正面玄関

もし、まだ余力があれば近くの桜生史跡公園にて古墳跡などが見れるので、行ってみても良いかもしれません。

あるいは、そこまで行くなら野洲駅にてレンタサイクルを借りても良いでしょう。

何だか本末転倒な気もしますが、野洲駅前の交番横にある「南口サイクルセンター」で借りられるはずです。