琵琶湖は近江のど真ん中に、ただ鎮座するだけではありません。
例えば滋賀のあちこちを巡っていると、その影響をより強く感じます。
つまり、近江の歴史や文化を語る上で琵琶湖はまず欠かせない存在なのです。
それこそ、近江だけにとどまらない影響力を持っています。
そんな琵琶湖が持つ機能を、今回は次の4つに分けてまとめてみました。
- あちらとこちらを繋ぐ機能
- 日々の糧をもたらす機能
- 信仰の場としての機能
- 緩衝地帯としての機能
また、それぞれ関連する歴史や文化も具体例として紹介しています。
あちらとこちらを繋ぐ機能
この機能には、近江の位置、都が奈良でも京都でもすぐ東にあり日本の中程を大きく占めていることが強く関わっています。
つまり、都から東、北陸や東国などへと向かうなら基本的に近江を通らざるを得ないのです。
これは地図からも明らかで、日本列島が近江辺りでキュッとくびれています。
そのため、北陸道や中山道、東海道など主な街道が束ねられる様に近江を抜けているのです。
そして、それらの街道は湖上交通と深く結びつき、より多くの人や物が行き交うことになりました。
例えば滋賀では大津や海津など、港を意味する津が付く地名が今も残されています。
その中の1つである塩津の塩津港遺跡では近年大きな発見があり、神社の跡や起請文を書いた木簡などが発掘されました。
これらは塩津が、主に北陸と都を結ぶ中継地として大いに賑わっていたことを示す貴重な資料です。
また、近江の中で生み出された様々なものも都へと沢山運ばれました。
その痕跡の1つとして、大津の石山寺には天智天皇の石切り場と呼ばれる場所があります。
これはそこから切り出された石が奈良まで運ばれ、川原寺に使われたというのです。
実際、その場所には明らかに切り出した跡があり、川原寺の跡にはここらで産出されたとされる礎石が残されています。
他にも田上山や甲賀などからの木材が、奈良の都や寺の造営で使われてきました。
そして、これらの石材や材木は琵琶湖から瀬田川を下り、巨椋池に出てからは木津川を遡って奈良へと運ばれたのです。
あるいは、大阪湾まで出て大和川を遡った可能性もあるかもしれません。
さらに、こうした瀬田川を使った物流は京都に都が移った後も続きます。
また、こうした各地とのつながりは反対に近江にも多くのものをもたらしました。
それには物質的な富だけでなく、風流踊りや曳山を始めとした都由来の文化なども含まれます。
中でも有名な長浜曳山まつりは、特産の生糸などの繊維産業による巨万の富が深く関わり、特に都との交易には湖上交通が大いに寄与しました。
同じ舶来もののタペストリーを切り出した見送幕が京都の祇園祭と長浜の曳山で使われていることは、それを示す興味深い事例です。
もちろん、文化そのものが湖上を通り伝わったかは分かりません。
それでも、琵琶湖が紡いだつながりが関わったとは言えるでしょう。
ただ、その大きな恩恵故に良いことばかりではなく多くの争いももたらしました。
例えば戦国時代は、織田、豊臣、徳川と天下人達が皆この地を治めるのに腐心しています。
なので、琵琶湖の重要な港には城が築かれることになりました。
それらは長浜城、大津城、八幡山城、彦根城など、今の町並みの原型となっています。
要は、良くも悪くも琵琶湖は都における東玄関前の運河として機能してきたのです。
日々の糧をもたらす機能
琵琶湖の恵みでまず挙げられるのは、コイやフナ、セタシジミなどの魚介類でしょう。
これらははるか昔から食べられており、縄文時代の貝塚からも沢山見つかっています。
そんな貝塚の中でも、湖の南端、瀬田川との境界が曖昧になる辺りにて広がる粟津湖底遺跡は淡水湖の貝塚として日本最大です。
こうした大きな貝塚が生まれたことからも、多くの人がこの恵みに惹きつけらた歴史が伺えます。
なお、カロリーベースで考えると木の実の類の方がより多く食されていたそうです。
そして、こうした琵琶湖産の食材は今の食文化にも引き継がれ活かされています。
鮒ずしや佃煮類、魚介類以外では北から渡ってくる鴨を使った鴨鍋も絶品です。
そうした食材以外にも、琵琶湖が近畿の水がめとも呼ばれるように水自体も重要な恵みです。
ただ、近江における琵琶湖の水の利用は一筋縄ではいきません。
細かい理由はいくつかありますが、根本的な難点は琵琶湖が滋賀県の中でも低い所にあることです。
おおよそ茶碗の真ん中に水が溜まっている具合で、水は上の方へと自然には流れません。
沿岸部ならば人力でも上げられなくはないですが、凄く大変な上にままならないことも多いそうです。
そのため、田畑に使う水は湖にそそぐ沢山の川から引いていることが多く見られます。
あるいは、ため池や湧き水も活用されてきました。
しかし、近代化とともに動力装置がもたらされると琵琶湖の水がより活用されるようになります。
県内各地で行われる、湖から取水し田畑にて使った後は川に流し再び湖に戻す逆水灌漑もその1つです。
また、逆水灌漑ではありませんが近代化を象徴する事業の1つに琵琶湖疏水があります。
これは単に京都へ琵琶湖の水を引いただけでなく、水力発電の動力にもなりました。
この様に琵琶湖は、その時代それぞれに様々な形で日々の糧をもたらしてくれているのです。
信仰の場としての機能
近江を巡ると琵琶湖が聖地そのものになることや、神話の舞台として語られることが多く見られます。
厳密にはより複雑で重なりもしますが、今回はこの経験を元に次の2つの場合を紹介します。
- 琵琶湖が神話の舞台となる場合
- 琵琶湖そのものが聖地になる場合
1つ目として、日吉大社の山王祭や兵主大社の八ヶ崎神事が有名です。
いずれも創建伝説を神事の形で再現しており、その中に琵琶湖を通って来訪された神様を迎える場面があります。
細かく見ていくと2つの神事は神様から神事まで諸々違いますが、琵琶湖を通ったという根本的な部分が共通しているのが興味深いです。
次に2つ目の場合だと、やはり竹生島の弁財天信仰が挙げられるでしょう。
この弁財天は日本三弁財天に数えられ、その中でも特に古いものとされています。
さらに、滋賀のお寺を巡っていると竹生島の特徴を持つ弁財天像を見かけることも多いです。
また、琵琶湖を模した池などに弁財天を祀る小島が作られることもよくあります。
例えば東京の不忍池にも、やはり弁財天が祀られています。
そして、これら2つの場合を広い目で見ると前述した琵琶湖の機能を反映している様で興味深いです。
琵琶湖との関わりの中で信仰文化も育まれてきた、そのことを改めて感じます。
緩衝地帯としての機能
さて最後の機能とは、都の中央政権に対する勢力、北陸やら東国やらとの緩衝地帯に近江全体がなっていたのではないかというものです。
これについては、全くの推測でしかありません。
ただ、近江を巡っているとそう感じるのです。
また琵琶湖の他に、次の2つの要素も関わります。
- 近江をぐるりと囲むそこまで高くない山
- 山と湖に挟まれたそれほど広くはない平地
まず諸勢力が直接ぶつかり合わないことが肝心で、その役割を琵琶湖と近江を囲む山が担います。
要は、緩めの隔たりになったと考えられるのです。
例えば琵琶湖は船があれば行き来できますが、逆にそれがなければ難しくなるでしょう。
さらに山はそれほど高くはないので超えられなくはないのですが、平地の様にはいきません。
この様に交流を断つ程では無いものの、近江の外も内も自由に行き来できるわけではないのです。
それから近江は平地が少なく、大きな都を作るには不向きな土地でした。
これは近江自体にて強大な勢力が生まれなかった、あるいは定着しない一因かと思われます。
これらのことから、次の2つが考えられるでしょう。
- 衝突を避けつつも交流を断つほどではない為、独立勢力にならない程度の関係を構築できた。
- 近江自体に強大な勢力が育ちきらなかった為、諸勢力が互いに存続できた。
これらについて、明確な確証はありません。
歴史は様々な要因が重なって紡がれるので、これで全てを語れることもないでしょう。
しかし、それこそ琵琶湖が平地や山であれば日本の歴史や在り方は大きく違ったと思えるのです。
琵琶湖はかなめ
やはり琵琶湖は、近江の歴史や文化のかなめであることは間違いありません。
これは、近江というまとまりが出来てからほとんど形を変えずにきたことにもよく表れています。
それぞれ地域に個性があるものの、琵琶湖の恩恵をいずれも受けてきたことが共有されているのです。
その様な琵琶湖の大切さを改めて思い返しながら、今年もあちこち巡れればと思います。