三井寺は滋賀を代表する古刹だけあり、実に様々な伝説を有しています。
それらは得てして真実とまでは言えないものの、全くのでたらめとも言い切れません。
つまり、それらの伝説は何かしらの契機があったからこそ生み出されたと考えられるのです。
そんな伝説達の中から、その名残りが今も三井寺で見られる2つを紹介します。
この2つは、かつて三井寺と延暦寺が武力衝突に発展する程に対立していた歴史を背景に持つのが共通点です。
事の始まりは第5代天台座主円珍が亡くなった後、円珍の弟子と第3代天台座主円仁の弟子との間で派閥争いが起きたことに端を発します。
この対立が激化し、ついに円珍派が山を下り円珍が再興した三井寺を拠点に活動し始めました。
以後天台宗は二分され、三井寺の方を寺門派、延暦寺の方を山門派と呼ぶようになるのです。
なお、あくまでも弟子同士の争いであり、円仁と円珍自身の仲は悪くなかったそうです。
また、抗争が激化した背景には宗教上の理由以外に様々な利権を当時の天台宗が有していたことが根底にあります。
例えば荘園や金融業による富、宗教的な影響力など、様々な既得権益を有していたのです。
そして、そんな対立が続く過程で今回紹介する伝説も生み出されたと考えられます。
弁慶の引き摺り鐘
その昔、延暦寺の僧兵だった武蔵坊弁慶が三井寺の一番の宝物として梵鐘を奪っていきました。
比叡山まで引き摺り上げついてみると、鐘が「イノー、イノー(いのう 帰りたいという意味)」と鳴いたそうです。
すると弁慶は「そんなに三井寺に帰りたいのか」と怒り、鐘を谷底へ投げ捨ててしまいました。
これが弁慶の引き摺り鐘と呼ばれる伝説のあらましで、まさに延暦寺との激しい抗争が反映された物語となっています。
そして、この伝説の鐘は金堂の隣の少しだけ上がった霊鐘堂に今はつかれることもなく奉安されているのです。
実際にこの鐘を見てみると本当に傷だらけで、引き摺られたり叩き落されたりしてついたものだと言われれば確かにそうかもしれないと思えてしまいます。
あるいは伝説の通りではなくとも、やはり抗争の中で傷ついてしまったのかもしれません。
ちなみに、この鐘の伝説はそれだけでなく実に不可思議な現象を起こしてきました。
例えば悪い事が起きそうなら汗をかいたりついても鳴らなかったり、反対に良い事が起きそうならつかずとも自然に鳴いたそうです。
つかずとも鳴くのはかなり「不自然」だと思うのですが、それは余計なお世話ですね。
ねずみの宮
三井寺と延暦寺における決定的な格差の1つに、戒壇の有無が挙げられます。
戒壇とは、僧侶として守るべき規律である戒律を授かる儀式、受戒を行う為の場所です。
この受戒を経て正式な僧侶となれるので、戒壇は仏教において極めて重要で欠かせません。
しかしながら、この戒壇はごく少数にしか設立を認められていなかったので許された寺院は非常に強い権力を得ることになるのです。
なので、三井寺は戒壇を設立しようと必死になり、自分達の優位な立場を守りたい延暦寺も必死で妨害しました。
そして、それは非常に激しい抗争となり「ねずみの宮」はまさにそれが伝説化したものなのです。
伝説は、まず三井寺の頼豪阿闍梨が白河天皇より皇子の誕生を祈願せよとの勅命が下されたことに始まります。
早速、頼豪阿闍梨が祈祷を行うとめでたく皇子が生まれたのでした。
その後、白河天皇より褒美は何なりととらせると約束されていたので悲願である戒壇設立の許しを願い出たのです。
しかし、この戒壇設立の勅許は延暦寺の強訴により取り消されてしまいます。
これに激怒した頼豪阿闍梨は21日間護摩を焚き、ついには壇上の煙となり果ててしまいました。
するとその強念から8万4千匹ものねずみとなり、延暦寺へと一気呵成に押し寄せ堂塔や仏像経典を食い荒らしたそうです。
そして、このねずみ達を祀っているお社が観音堂に続く石段の脇にある十八明神社です。
なので、本来ならば三井寺の土地や伽藍を守護する神様を祀るお社ですが、ねずみの宮とも呼ばれ親しまれています。
この様な激しい伝説を持つお社ですが、今は観光客も足を止めない程ひっそりとした佇まいです。
ただ、そのお社は北向き、つまり延暦寺の方を向いているとも伝えられています。
三井寺に残る伝説や事件の痕跡たち
三井寺と延暦寺との間には様々なことが起こっており、今回紹介したことなどほんの一部分にしかすぎません。
例えば伝説以外にも、三井寺の金堂と延暦寺の西塔にある釈迦堂の関係など実に興味深いです。
もちろん、それだけ波乱万丈な歴史だったとも言えるので一概に喜ばしいことではないでしょう。
しかし、大津や滋賀のみならず日本史にも深く関わることが多く、非常に重要な歴史の舞台なのは間違いありません。
なので、三井寺に残る歴史の痕跡を探しにぜひ一度足を運んでみてください。