安土城の最寄り駅でもある安土駅から徒歩で15分ほど行くと、それは立派な楼門や社殿が立ち並ぶ沙沙貴神社があります。
流石は全国の佐々木さん達の崇敬を集める神社らしい、どっしりとした佇まいです。
そんな沙沙貴神社には、次の四座五柱の神様が御祭神として祀られています。
なお、各祭神の説明は本殿近くの石碑から引用させていただきました。
これらの御祭神でまず注目したいのが、大毘古神と宇多天皇、敦實親王の三柱です。
この内、大毘古神が沙沙貴山君の祖神、宇多天皇、敦實親王が宇多源氏の祖神とされています。
そして、この沙沙貴山君と宇多源氏が結びつくことで佐々木一族が誕生することになるのです。
まず、事は宇多天皇の第八皇子である敦實親王の三男で臣籍降下された源雅信に始まります。
平安時代の頃、皇族の増え過ぎで財政問題などが起きるようになってしまい、皇位継承が望めない皇族を臣籍降下させることで自立を図る方策がとられていたのです。
さらに、初代雅信の孫である三代目源成頼が近江に下向し、五代経方が佐々木氏を名乗り小脇館に住んだとされています。
やはり、臣籍降下から三代目ともなると職に上手くつけず京にいても仕方がなかったようです。
ただ、この辺りの説には異論もあり、宇多源氏がどの様に当地に定着したのか、佐々木氏の出自がどうなっているのかはよく分かっていません。
なので、ここで紹介するのはその中の一説と考えてください。
こうして宇多源氏が近江に定着していく一方で、沙沙貴山君一族もまだ蒲生郡で力を持っていたとされます。
むしろ、経方が小脇館に来た平安末期は沙沙貴山君の方が優勢だったとも言われているのです。
確かに都から離れなければいけない人より、確固たる地盤を持つ地方の有力者が力を持っていても不思議ではないでしょう。
ただ、その後の両者は同じ佐々木氏ですが別々の一族として併存していたと考えられています。
この辺りの経緯は不明瞭ですが、沙沙貴山君が宇多源氏をどうにかして取り込んだようなのです。
そして、この後の源平合戦を通じて宇多源氏系佐々木氏の方は権力を増大させていきます。
逆に沙沙貴山君系佐々木氏はこの時期に力を落とし、宇多源氏系統の配下となりました。
その源平合戦での両者の出来事を簡単に書くと、大体次の様な流れになっています。
宇多源氏系佐々木氏
- 保元・平治の乱では源義朝側についたため関東の相模国渋谷庄まで追いやられる
- 源義朝の嫡男である源頼朝にも付き従い治承・寿永の乱では戦功あげる
- その戦功により佐々木荘に戻り、佐々木荘地頭職、後に近江守護となる
沙沙貴山君系佐々木氏
- 保元の乱では源為義側につく
- 平治の乱後に平氏に従うも、佐々木荘の領家・預所は平氏の手に渡り下司職になる
- 平氏が都落ちした後に源氏方につくも恩賞は無く、懇願の末に佐々木荘本知行地を安堵される
- ただし、その身分は佐々木荘総管領の宇多源氏系統の佐々木氏の配下
この後、宇多源氏系佐々木氏はさらなる飛躍を遂げ、その一族も各地に広まり増えていき六角氏や京極氏などに繋がってゆくのです。
この様に佐々木氏には2つの一族が関わっている為、祀られる祖神も二座三柱となっています。
また、沙沙貴神社は元々沙沙貴山君が関わっていたので、神社の方が先にあってそこに宇多天皇と敦實親王が合祀されたと考えられるでしょう。
さて、ここまで第二座と第四座の神について触れてきましたが残る二柱の神は判然としない点が多々あります。
自分の勉強不足もありますが、この二柱は古代の話になる為よく分からないことが多いのです。
それでもあらましだけ言うと、この二柱に加え第二座の大毘古神は沙沙貴山君がこの地に根付いた歴史を物語っているのではないかと考えられます。
やはり、この辺りを含めてまだまだ掘り下げていく必要がありそうです。