滋賀を代表する古刹である三井寺の創建は7世紀頃、白鳳期にまで遡るとも伝えられています。
そして、その創建の歴史を物語るものの中で最も有名なのはやはりご本尊の弥勒菩薩様でしょう。
このご本尊は天智天皇の念持仏とも伝わりますが、これには孫の与太王が三井寺を創建した伝承が関係しています。
というのも、元々は天智天皇自身が創建を志すも果たせず、また息子の大友皇子も壬申の乱により若くして亡くなってしまい実現しなかったのです。
そこで、その又息子の与太王が父の菩提を弔う為に何とか創建にこぎつけたとされます。
ちなみに、三井寺の正式名称である園城寺もこの時の伝承が由来です。
ただ、このご本尊が絶対秘仏なことで極めて悩ましい事態を生んでいます。
絶対秘仏とは絶対に秘せられた仏と読める通り、今まで誰一人見たことが無い秘仏中の秘仏です。
三井寺の僧侶でさえ一切無いらしく、大きさも同時代の金銅仏から推定したとされます。
つまり、ご本尊自体が伝説の存在となっていて実態がよく分からないのです。
しかも困ったことに、間違いなく白鳳期と言えるものは三井寺にはほとんど残されてはいません。
それ故、創建の伝承どころかご本尊さえも存在がはっきりとはしなかったのです。
しかし、そんな問題に一筋の光明となる遺物が三井寺の金堂の片隅にひっそりと置かれています。
それこそが今回ご紹介したい、金堂付近より発掘された白鳳期の軒瓦です。
この時代の瓦は仏教建築の為に輸入された日本には無かった技術なので、もっぱら寺院、もしくは限られた国の施設にしか使われてはいません。
そのため、この時代の瓦が発掘されれば寺院が存在した可能性がまず考えられます。
さらに、瓦当に描かれた模様から作られた時代や造営に関わった勢力なども分かるのです。
例えば三井寺から発掘された瓦には、近くの寺院跡である穴太廃寺や崇福寺跡などと同種の文様が描かれたものも含まれていました。
このことなどから、大津周辺で同時期に多くの寺院が建立されたと考えられ、時期や位置関係から大津宮と共に一帯が整備されたと推測できるのです。
ただし、先の創建の伝承や今ある三井寺との関連性まではよく分かってはいません。
それもあって遺跡の名前も、「園城寺前身寺院」となっています。
もちろん、同じ場所にあったことから全くの無関係ではないでしょう。
さらに、少なくとも白鳳期にこの場所に寺院があったことは確かなのです。
従って、創建の伝承もそのままではないにしろある程度は史実が含まれる可能性が考えられます。
また、ご本尊の存在も全くあり得ないとは言い切れなくなるでしょう。
つまり、直接は見られないご本尊を少しでも感じられる数少ない証言者でもあります。
この様にただの土くれにも見える発掘された瓦ですが、三井寺を語る上で非常に重要な手がかりとなっているのです。
なので、三井寺に行った際には小さな欠片からぜひ古代の歴史に思いをはせてみてください。
金堂に入ってすぐ、ご本尊に向かって左の壁際、受付がある方とは正反対にある展示ケースの中に陳列されています。