延暦寺と平安京との関係を説明する時に出てくるのが、都の鬼門封じという話です。
私も昔からよく聞いていたので、余り何も考えず受け入れていました。
しかし、延暦寺の歴史を学んでからこの説を検討してみるとかなり奇妙なのです。
結論から言うと、都の鬼門に建てられたのではなく、後に都の鬼門を守る寺として位置付けられたという方が正しいのではないかと思います。
なぜなら、延暦寺の創建当初からそう考えられていたとするにはやはり疑問が生まれるのです。
例えば、次の様な疑問が挙げられます。
まず最澄が比叡山を選んだ理由として、出身地に近い高名な霊山だったからが挙げられます。
さらに、最澄の父である三津首百枝が比叡山の前にある八王子山で子を授かれる様に籠ったなど、最澄が生まれる前からの伝説もあるのです
伝説なのでどの程度が事実かは議論の余地があるにせよ、非常に縁が深かったと考えられます。
こうしたことから、山林修行の場を選ぶ時に外部からの影響を受けた様には思えないのです。
あくまで最澄にとって、自然な流れのままに選んだ印象を受けます。
次に生まれるのが最澄が比叡山に籠ったのが785年、後の根本中堂に繋がる一乗止観院の創建が788年という時期の問題です。
つまり、平安京ではなく長岡京の時代に最澄は比叡山で活動し始めています。
そのため、このことだけでも鬼門封じの為に建てられたという話はおかしくなるのです。
こうしたことから、延暦寺が鬼門封じの寺として位置付けられたのは創建した後の可能性が高いと考えられるのです。
なお、延暦寺が鬼門封じの寺として長い歴史があることは間違いありません。
例えば比叡山焼き討ちの後に豊臣秀吉の時代には復興が始まるのですが、その理由に都の鬼門封じとしての重要性が挙げられているのです。
そして、そもそも鬼門封じが問題になるのはこの風習がいつから始まったかよく分からないことに端を発しています。
だからこそ、延暦寺の鬼門封じの件がいつからなのかが非常に興味深い問題になるのです。
延暦寺にとっても、中央政界に認められていった歴史と重なる部分もあるでしょう。
あるいは、日吉大社の神使が猿であることにも繋がるのかもと想像が膨らみます。
もちろん、これはあくまで想像ですが。