最澄と空海、どちらが有名かと言うとおそらく空海の方でしょう。
空海あるいは弘法大師ゆかりの何某、その様な数多くの伝説が全国各地に残されていることからも認知度の高さが表れています。
それに最澄にも伝教大師という大師号がありますが、それもほとんど知られてはいないでしょう。
むしろ、空海ほど大師号が知られている僧侶は中々いません。
この様に最澄と空海には圧倒的な知名度の差があるのですが、これには両名の自己演出力の違いが1つの要因と考えられます。
もちろん、当時流行した密教をしっかりと抑えた空海とそれ程ではなかった最澄といった歴史的な経緯も大きいでしょう。
しかし、後の仏教や日本の歴史においては「日本仏教の母山」とも称された様に天台宗の活躍にも特筆すべきものが沢山あるのです。
そこまで活躍したのにも関わらず、宗祖の認知度が低いのは不自然に思えます。
こうしたことから考えても、歴史的な経緯だけでは説明が不十分でしょう。
なので、別の要因も考える必要があり、その1つが演出力ではないかと思うのです。
特にその違いが顕著に表れているのは、死後の祀られ方です。
まず、空海は高野山の奥の院に入定し今も生きて瞑想されているとされています。
実際、日々の食事を僧侶が運んでいたりと空海の為の儀式が今日も行われているのです。
こうした場面を見ると、やはり空海の凄さや伝統の重みを強く感じます。
では最澄はと言うと、そもそもどこで祀られているか自体あまり知られてはいない気がします。
それもそのはずで、観光客はあまり行かない場所、東塔地域と西塔地域を結ぶ道すがら境目辺りにポツンとあります。
しかも手前には浄土院のお堂がある為、何も知らずに近くに行っても見えないので気づかない人も多いかもしれません。
かく言う私も何度か通ったことがあるのですが、御廟の存在に最近まで気づきませんでした。
また、最澄は遺言で喪に服さなくてもよいと述べていたり、最澄を祀る様な儀式が行われるのもの後のことだったりするそうです。
つまり総じて言うなら、自分を祀る様なことはしなくてよい、それが最澄の考え方と思われます。
さらに、最澄は非常に法華経を大切にしていて、遺言でも何度も生まれ変わり教えを広めるとまで述べているのです。
この様なことから、空海は自分を神格化させたのに対し、最澄は自分よりも教えを優先する違いが感じられます。
思うに、これは生前の布教活動などでもそうした傾向があったのかもしれません。
さらに、その後の天台宗と真言宗を見ていてもその影響を見て取れます。
例えば先程挙げた通り、比叡山延暦寺はその後「日本仏教の母山」とも称され、鎌倉仏教の開祖を多く輩出したことはあまりにも有名です。
これには天台宗が円、密、禅、戒の四宗を学べる仏教の総合大学だったことが大きいとされます。
要するに、鎌倉仏教の開祖たちはここからこれはと思うものを選び取っていったのです。
そして、この様な仏教を学び深められる場を形成することに最澄は一生をささげました。
こうした学びや経典を大切にする姿勢からみるに、最澄は学者肌だったのかもしれません。
中でも、釈迦の教えを誰もが学び易くする方法として言語化された経典を重視した節があることにその印象を強く受けます。
しかも、最澄が生きている内に天台宗の立場を確固とすることが出来なかったのも逆に良い働きをしました。
つまり、その遺志を引き継ぎ弟子達が何とかしようした努力が発展するきっかけとなったのです。
こうした天台宗に対し、真言宗は鎌倉仏教の様な展開は見せませんでした。
これは、真言宗が密教をより重視した単科大学の様だったからというのがよく言われる理由です。
つまり、空海そのものを目標としてしまったことで更なる展開が生み出せなかったというのです。
確かに、真言宗が大切にする密教は経典を勉強するというより師の生き方や心から学ぶそうなので尚更なのかもしれません。
先程挙げた空海が神聖視されたのも、こうした理由が大きいとされます。
この様に、天台宗と真言宗のその後にも2人の高僧は極めて大きな影響を与えているのです。
そのため、この2つの宗派の歴史や性格を考える上で2人の存在は欠かせません。
そして、それ故に歴史の妙を感じるのが同時代にここまで性格の違う傑物が生まれたことです。
この様な対照的な2人だからこそ紡がれた歴史なわけで、運命的なものがあります。