今でこそ滋賀県はのどかで落ち着いていますが、その歴史を見るとかなり血生臭く感じます。
壬申の乱、治承・寿永の乱、姉川の合戦など、日本の行く末をも左右する大戦の舞台となることが実に多いように思えるのです。
その理由の1つとして、まず挙げられるのが滋賀に主要な道が通ることでしょう。
東海道、中山道、北陸道と、都に東から入る道がほぼ全て滋賀に集約されているのです。
地図を見るとその原因も一目瞭然で、日本海と太平洋が滋賀辺りで接近し日本列島のくびれの様に狭くここを通らざるを得ないことが分かるかと思います。
例えば瀬田の唐橋で戦が多かったのは、これが1つの要因です。
ただ、滋賀には戦が多くなる要因と考えられるものがまだあります。
それが、権力構造が極めて複雑で全県を統一する様な権力者がいないことです。
中世辺りには六角氏が近江の守護として強い権力を持ちますが、湖北の京極氏や比叡山延暦寺など対抗勢力も沢山いました。
なので、ずっと安定した権力を有していた訳ではありません。
むしろ、この様に多くの勢力がごちゃごちゃするのが滋賀の歴史全体に通じる特徴とも言えます。
では何故これ程ごちゃつくのか、あるいは統一する権力者が育たないのでしょうか?
この理由を細かく考えると、当然その時代ごとの理由もあるかとは思います。
しかし、滋賀の歴史全体を通して考えると概ね次の2つの理由が考えられるでしょう。
- 全県で交易、漁業、農業などが非常に盛んで多くの既得権益が生まれた
- 都に近く交通の便も良いため、中央政界や寺社などの権力者と結び付けた
まず先程指摘した通り滋賀には主要な道が通るため、特に交易関係の様々な権益が生まれることになります。
加えて、こうした交通網は情報網にもなるので周辺情勢の把握も可能にしたのかもしれません。
さらに、かつての近江は琵琶湖の漁業や近畿の食を支える程の大規模な穀倉地帯でもありました。
こうして権益や富が増えていき、やはりそれらを既得権益とする勢力が沢山表れます。
そして、それらの勢力は様々な権力者を頼ることで自分達の権益を盤石のものとしたのです。
この様にして規模自体は小さくとも有力な権力者と結びついくことで潰し難くなり、様々な勢力が乱立する状態になったと考えられます。
一例を挙げると、堅田衆と延暦寺、京都の下鴨神社関係がまさにそれです。
堅田衆とは今の大津市堅田にあった自治組織で、この2つの寺社の権威を背景に琵琶湖の漁業権と航行権を独占する特権的地位を築きました。
また、この特権を元にし堅田は中世の近江において最大級の自治都市となったのです。
この様に中世の近江は、一番上に全てを支配する者がいる単純な階層構造ではありませんでした。
つまり、小さな勢力が近くの権力者だけでなく、別の権力者とも結びつくことがある非常に複雑な権力構造だったと考えられます。
しかも、この複雑な権力構造は中世だけでなく、古代にも同じ様な有様だった可能性が指摘されているのです。
これは近江の前方後円墳、つまり首長の墓が継続して作られないことからそう考えられています。
この辺りは私自身まだまだ詳しく調べられていないので、もっと探求したい課題です。
ともかく、権力構造の複雑さは最早滋賀の伝統とも言えるのかもしれません。
そして、その複雑さは滋賀の歴史や文化に大きく関わっていると考えられるのです。
例えば堅田衆は後に延暦寺と対抗できる程の力を持ち、浄土真宗の蓮如上人をかくまっています。
このことは、浄土真宗の歴史において大きな転機になったと考えられるのです。
他にも自治組織がより大きな力をつけたことは、滋賀の祭り文化が多様になることにも繋がったと考えられます。
祭りには何かとお金がかかるので、ある程度の余裕や蓄えがないと発展できないのです。
この様に、滋賀の特色と言える非常に複雑な権力構造は戦以外にもより多くの影響をもたらしたと考えられます。
そのため、この構造を理解することは非常に重要な意味を持つのですが如何せん難しいのです。
そもそも複雑でほどき難い上に、手掛かりとなる文献資料なども豊かではない分野なのが高い壁となっています。
なので、まだまだ謎の多い課題ですがその分興味深い滋賀の話が多く眠っているかもしれません。