湖国探遊記

滋賀の歴史や文化を中心に、たまにそれ以外も

寺伝や社伝などの伝承はどの程度信用できるのかという問題について

歴史などを学びながら色々と巡っていると、寺伝や社伝などの伝承の扱いをどうしようかと思ってしまいます。

これらは事実とするには難しいものもあり、かと言って全く無視するのも出来ない存在なのです。

 

結論から言うと、大体次の通りにしています。

  • 大前提として史実は史実、伝承は伝承と分けて考える
  • 史実を示す、より確かな根拠をまずは優先する
  • その上で、伝承の示す内容や生まれた背景などを考えていく

 

例えば伝承には起こった出来事が反映されていると考えられたり、そのまま事実であるかのように受け止められたりします。

しかし、伝承はそれだけだと何とも言えないのがほとんどなのです。

 

まず、何かの出来事が反映されているとして、どう読み取ればよいのかという問題があります。

つまり、何かしらの解釈をしてしまうとその解釈が正しいのかどうかという問題が生まれてしまうでしょう。

つまり、史実の資料としては極力解釈を入れずに読み解ける方が良いのです。

 

さらに、その伝承がいつ出来上がったのかという問題もあります。

その伝承自体は昔からあると言っても、史料としてまとめられたのがその出来事が起きた時よりも後なら変質してしまっていることも考えられるのです。

そもそも、後の時代に勝手に作られた可能性だってあるかもしれません。

 

その上、誰が言い始めたのかが分からないことも問題になります。

やはり当事者が語るのが一番正確で、それより後は伝言ゲームの様に精度が悪くなるのです。

 

こうした問題があるので、まずは史実と伝承は分けて考えるのを基本にしています。

 

ただ、そうは言っても何故この様な伝承が残っているのか気になるのも性というものです。

なので、伝承を検討する為の土台としてより固い史料をあれこれ持ってくるようにします。

この土台を基準に据えて、ここはいい線をついてそうとか、あそこは明らかに矛盾しているとか、そうしたことを考えていくのです。

 

そして、こうした検討により史実として的外れと考えられても、意外で面白い事実に行きつくのが伝承の面白い所の1つでもあります。

 

例えば東近江市周辺には、聖徳太子が関与する伝説が多くあるそうです。

しかし、聖徳太子がこの地にきて何かをしたとは到底考えられません。

そのため、こうした伝説が多く残ったこと自体が1つの疑問として浮かび上がります。

ここを追求すると、地域の信仰文化に関わる話に繋がるのですがそれは別の機会にしましょう。

 

伝承は史実よりも物語として上手く出来ており、その魅力もより高く面白い存在です。

ただ、その魅力にとらわれ過ぎては妙になことになってしまう厄介な存在でもあります。

やはり、伝承はいい塩梅で楽しむことを常に考えるのが肝心です。