近江、今の滋賀ではのべ数で約1,300もの城が築かれました。
この数は極めて多く、単位面積当たりの数では日本一とも言われています。
一応、数としては兵庫や岩手、福島なども千を超えると言われますが、いずれも面積が大きいので密度は低めです。
この他にも色々と突っ込み所がある数なのですが、それらは今回関係ないので触れません。
ともかく、確かで大事なのは近江には多種多様な城があったということです。
実際、名だたる戦国武将が近江に居城あるいは命じて築城させており、織田信長や豊臣秀吉、明智光秀、徳川家康などの天下人も皆関わっています。
それら代表的な城を筆頭に語り始めると終わりが見えない程に多いのですが、その主な理由としてまず次の3つが挙げられるでしょう。
- 都より東に行く為の街道が集約する交通の要衝だった為
- 近江を制する有力者の入れ替わりが多かった為
- 甲賀で沢山の小領主が勢力争いをしていた為
まず、近江には北陸道、東山道、東海道などの主要な道が集約している為に、都から東の地域へはほぼ近江を通らざるをえませんでした。
すなわち、近江を制さないと都をおさえることは出来ず畿内の安定化も果たせなくなるのです。
なので、天下人と目される人々は近江の支配を固めることに尽力しています。
例えば織田信長は安土城、大溝城、坂本城、長浜城と琵琶湖を取り囲むように城を築きました。
他にも徳川家康は、天下普請による膳所城と彦根城で対豊臣勢力に対抗すると共に近江を分断して抑え込もうとしています。
こうした支配体制を固める為の城が近江の各地に築かれ、その数を増やしたのです。
また、この様に天下人達が入れ替わり近江に訪れるのですが織田信長以前にも有力者がいました。
それが近江の守護を最も長く務めた六角氏と、北近江を支配した京極氏です。
中でも六角定頼は、天下人に見なされることもある程の実力を持った人物でした。
しかし、その後の京極氏は浅井氏に下剋上を果たされたり、六角氏は織田信長に領地を追われたりしています。
この様に有力者の入れ替わりが多い近江では戦も多く、故に城も多くなったと考えられるのです。
そして、城の数が多くなった最後の理由は少し変わったもので甲賀武士が挙げられます。
戦国時代の甲賀では、甲賀二十一家や甲賀五十三家と呼ばれる地侍が縄張り争いをしていました。
こうした勢力争いにより小さな城館が多く築かれ、200近くもあったとされます。
ちなみに、これらの甲賀武士は甲賀郡中惣という合議による連合体を対外的にはとっていました。
この様に、近江では様々な理由によって多くの城が築かれたのです。
そして、多種多様な理由がある故に戦国時代の情勢変化の参考にもなるので、やはり実に興味深い地域だと思います。