琵琶湖は、昔から海のような扱いをされます。
また、今でも滋賀県民の間では琵琶湖のことを「うみ」と呼んだりするのです。
しかし、なぜ海の様に扱われるのでしょうか?
理由の1つに、まず挙げられるのは琵琶湖が極めて大きいことかもしれません。
ただ、それなら琵琶湖ほどではないものの、対岸が遠く海の様に感じられる湖は他にもあるので、それらも海のごとく扱われていい気がします。
けれども、そういう話は聞いたことがありません。
もちろん、私の知識不足かもしれないので本当にないのかは分からないです。
それでも、滋賀県のご当地ネタとしてよく取り上げられる程なので珍しいのは確かでしょう。
また、昔からそう思われているのではと感じる痕跡もあるのです。
例えば日吉大社に大己貴神が勧請された時の神話では、まず琵琶湖を渡って唐崎に訪れています。
この琵琶湖を渡ってというのが、何とも海っぽいなと感じるのです。
まず、この時に琵琶湖は目的地ではないので登場させる必要はありません。
例えば春日大社の神話だと、武甕槌命は白鹿に乗って直接御笠山に降り立っています。
にもかかわらず、彼方から此方へと来る場所という海の様な役割をわざわざ担っているのです。
考えすぎと言えばそれまでかもしれませんが、今の海として扱う感覚と近しいものを感じます。
そして、この遠くの場所に行き来できるというのがその感覚の始まりなのかもしれません。
つまり、琵琶湖が水運の要衝として様々な場所を結び付けてきたことがその感覚の生まれた要因の1つではと思うのです。
本当に想像でしかない話で、証拠は何にもありません。
けれども、昔から琵琶湖の水運が重要視されてきたのは確かなので、ちょっと位は影響していてもおかしくはないように思えます。
あくまで希望的観測ですが。