滋賀に何故多くの文化財があるのか、その理由の1つが天台宗との関わりです。
「近江の湖は海ならず 天台薬師の池ぞかし」と詠われるなど、滋賀と天台宗は切っても切れない関係にあります。
そんな大切な関係を、次の3つの項目に整理してみました。
まだまだ他にもあるかと思いますが、これまで見聞きしてきた中だとこれらに関わる事柄が非常に多かったのです。
特に、滋賀だけでなく日本の宗教史にも深く関わる日吉大社と紡いだ歴史は、天台宗の始まりから今にまで続く最重要項目かと思います。
しかもその関係が天台宗どころか、最澄が生まれる前にまでさかのぼるのが実に運命的です。
つまり、最澄の父の三津首百枝が日吉大社の背後にそびえる八王子山に籠り子宝を授かれるように祈祷したことに始まります。
また、それ故に最澄は日吉の神様の申し子などと呼ばれることもあるのです。
その後、最澄はより奥に分け入り、今の根本中堂の辺りに草庵を結び修行を重ね、いよいよ唐へと留学します。
その留学中、天台山国清寺にて地主神を祀る山王祠を見つけるのです。
そして、これに倣い日吉大社を山王権現として天台宗の御法神に位置づけたことに両者の直接的な関係が始まります。
また、これは神仏習合の更なる段階へと進む最初の事例でもありました。
さらに、坂本の地主神から天台宗の御法神に位置付けられることで日吉大社は大きく飛躍します。
要するに天台宗の布教活動に伴って、日吉大社も全国へと広がっていったのです。
ただ、それを語り始めると終わらなくなるのでまたの機会にさせてください。
次に滋賀県全土に広がる天台宗ですが、今もその影響力を示す様々な痕跡が多く残っています。
例えば湖東三山の一角である金剛輪寺ですが、最初の呼び方はおそらく松尾寺だけでした。
それが天台密教の道場になったことで、密教らしい金剛輪寺という名でも呼ばれるようになったと考えられるのです。
最近復元された金剛界八十一尊曼荼羅などの寺宝は、その歴史を感じさせてくれます。
他にも天台宗の影響で、東近江市周辺で聖徳太子の伝説が非常に多く残ったと言われています。
これは最澄が聖徳太子の生まれ変わりとされるなど、聖徳太子の権威を布教活動に活用した為だと指摘されているのです。
この様に滋賀県には天台宗との関係を物語る痕跡が多々残っており、これを辿るだけでも大作が仕上がってしまう程ではと感じます。
そして、最後は天台宗にとって世紀の大事件である比叡山焼き討ちです。
実はあまり知られていないのですが日吉大社も同じく極めて大きな被害を被っており、そこからの復活にも凄まじい歴史があります。
なお、戦国時代における天台宗への攻撃は比叡山にとどまらず百済寺など他にもあります。
つまり、戦国時代を通じて天台宗の様々な寺院が多くの戦火にさらされたので、その勢力を大きくそがれてしまうのです。
それにより天台宗から、別の宗派になってしまう寺も現れます。
例えば江戸時代に黄檗宗が栗東や東近江などで広まったのも、天台宗が廃れ空いた所に入り込んだという事情もあるのです。
この様に、後の時代になっても戦国時代に受けた傷を完全に癒せたわけではありません。
ただ、その一方で復興させる活動も盛んに行われました。
その中でも天海の活躍は目覚ましく、今も比叡山や坂本などにその足跡が残されています。
日吉東照宮や慈眼堂を始め、巡るべき場所が多く残っていてこちらも大忙しです。
今回は簡単に天台宗と滋賀の話をまとめたかったのですが、この通り長くなってしまいました。
やはりこの話題は、本当に一筋縄ではいきません。
なので、今後も修行していく必要がありそうです。