湖国探遊記

滋賀の歴史や文化をあれこれしてます

踊る埴輪や残虐な織田信長などの歴史を学ぶ上で厄介な強すぎる物語性

歴史について語ったり学んだりする時、得てして何らかの解釈をもってしまうのが人の性です。

つまり、広く流布している説や見方などの影響を受けていることが多いかと思います。

例えば左右の手を上げ下げしたひょうきんな埴輪は、踊っている様にも見えることから踊る埴輪と命名されました。

あるいは、比叡山焼き討ちなどの残虐な話の数々から織田信長は仏教を苛烈に弾圧したという説も有名でしょう。

 

しかし、そうした説の中には最早専門家の間では疑問視されているにもかかわらず、何年経ってもそのままに生き残っているものも多いのです。

先程の踊る埴輪は今では馬飼いの説が有力ですし、織田信長の残虐性も見直されています。

 

これ程までに情報社会が発展しても最新の学説は広まり難いのかとも少しは思ってしまいますが、仕方のないことでもあるのでしょう。

やはり、最新の学説だからといって必ずしも一般的に興味を引けるものではありません。

むしろ、一般的に広まるのは強い物語性があるかがより肝心です。

そのため、逆に信憑性がまだ高まってはいない最新の説でも、ここが強いと一気に取り上げられて巷を賑わしたりするのも見かけます。

 

というより、この物語性は専門家でも事実を見誤る原因となることが非常に多いのです。

よくできた歴史の物語は、それだけで強い説得力をもってしまいます。

 

ただ、この物語性が面白いから歴史を学んでいる面もあるので、そこが実に悩ましいです。

楽しみながら疑う、凝り固まった見方をしない為には十分に気をつける必要があります。

滋賀の旅行で目的地にたどり着く最後の一手はレンタサイクルが一番いいのかも

滋賀の旅行なら、交通手段はやはり車かタクシーが一番困ることなく効率よく回れるでしょう。

自分の県なのですが、滋賀の公共交通の事情は流石に自慢できるものではありません。

 

まず鉄道は、琵琶湖を囲う様にJRが一周し、草津線近江鉄道信楽高原鐵道、京阪などで多少は補えているので運行本数に目をつぶれば悪くはないでしょう。

ただ、そこから目的地にたどり着く最後の一手に悩むことが多くあります。

バスなどが一応はあっても本数が限られていたり、ほとんど運行していなかったりするのです。

公共施設や博物館などですら、そんな有様だったりします。

 

そんな時、役立つのがレンタサイクルです。

レンタサイクルだと余計に時間が掛かるようにも思えますが、バスを待っていたりすると同じ位になったりします。

また、運行本数が少ないとバスの時刻表に旅程が縛られるので面倒なことが多いです。

 

しかも、滋賀には仕方なくではないレンタサイクルをお勧めできる理由もあります。

  • レンタサイクルを借りれる所が探せば結構ある
  • 余程山に近づかない限り道が平坦
  • 自然環境が良い所も多いので漕いでいて気持ちが良い

まず、滋賀には意外とレンタサイクルを借りれる所が多く、中でも駅の近くにあることが多いのが便利です。

例えば、次の様な名称で運営されています。

この他にも観光案内所で貸していたり、個人経営なのか小さくやっていたりするのです。

検索しても引っかからない場合は、Google マップで網羅的に調べてみるのもありでしょう。

 

そして、レンタサイクルをお勧めできる理由で特に大きいのが次の2つ、地形と自然環境です。

 

滋賀はそれなりに平坦な地形が広がる所が多く、琵琶湖周辺はもちろん、特に湖東から湖北辺りは開けている所が多かったりします。

なので、距離がそこそこある様に思えても案外楽に行けてしまうのです。

もちろん、人それぞれの体力にもよるかとは思うのであまり過信し過ぎないで、特に最初は余裕を持って行ってください。

 

また、滋賀は高い建物が少なく、町を離れれば田畑が多く、特に琵琶湖なんて何もありません。

そのため、視界が開けており風も通るので涼しく気持ちが良く走れます。

最近はそうした理由もあってか、ビワイチなる琵琶湖一周の自転車旅が流行っているそうです。

 

なお、たまに返却時間が早めだったり、利用できる時間帯が不規則だったりするので、返却時間や借りられる時間はよくよく確認するようにしてください。

 

金剛輪寺の別名や愛荘町の地名に残る依知秦氏の名残りについて

金剛輪寺と言えば、湖東三山のお寺として有名で秋の紅葉の時期は多くの人で賑わいます。

また、名前の由来と関連するので天台密教の道場としての歴史も通な人にはよく知られているかもしれません。

 

しかし、今回話題の中心はもう1つの名前である松尾寺の方になります。

この松尾寺は地名に基づいた名前で、この松尾が依知秦氏に関連していると考えられるのです。

 

この依知秦氏は、渡来系氏族の秦氏に連なる一族で先進の土木技術や農業技術によって湖東地域を開発しました。

ちなみに、依知秦氏ゆかりの古墳と考えられる金剛寺野古墳群が愛荘町に残されています。

また、元の秦氏京都盆地の開発に携わっており平安京の造営にも貢献しました。

その痕跡として、本拠地であった太秦の「秦」にその名が残るのです。

さらに、この太秦で有名な神社の松尾大社にも秦氏が関わったとされています。

 

そして、ここで先程の松尾寺の松尾と繋がってくるのです。

これだけだと、ちょっとこじつけ感があるかもしれません。

ただ、金剛輪寺のある山の名前にも秦川山と残るので、やはり秦氏ゆかりの松尾と考えられます。

 

それから、かつてはこの地域の町や村の名前にも「秦」が使われていました。

まず、秦川村がそれで明治の頃に複数の村が合併してできました。

さらに、昭和に秦川村と八木荘村が合併し秦荘町と、ここまでは「秦」が使われていたのです。

 

しかし、秦荘町愛知川町が合併した際に愛荘町となり「秦」は消えてしまいました。

またしても合併かと思うのですが、そうなってしまったものは仕方がありません。

合併で名前が変わり、土地の由緒がわかり難くなることが本当に多いのです。

 

一方で、秦川村が出来るより前だと村の名前に「秦」が使われてないそうなので、元に戻ったとも考えられます。

それに、秦川山や松尾寺の方は今も生き残っています。

滋賀、多賀、甲賀と並べると余計にややこしい甲賀の読み方の問題

甲賀は何と読むのかご存じでしょうか?

おそらく、「こうが」と呼んでしまう方が多いかもしれません。

滋賀は「しが」、多賀は「たが」など、引っ張られる読み方も多いので余計でしょう。

しかし、元々は「こうか」であり、実はこちらが甲賀市などで使われる正式な読み方なのです。

 

実際、平成16年に5町が合併し甲賀市が発足した際に一般公募し合併協議会で決められたもので、公的な機関では基本的にこの読み方が採用されました。

他にも「甲賀コーラ(こうか コーラ)」という、中々なご当地飲料まであります。

ちなみに、ちゃんとコカ・コーラ社から許可を得ているそうです。

 

また、何故「こうか」と読むのかの代表的な理由として古代にこの辺りを治めた鹿深(かふか)氏に由来することが挙げられます。

確かに、滋賀ではこうした古代氏族名が地名などに残る例は非常に多くあるのです。

例えば小槻氏は小槻大社、犬上氏は犬上郡、佐々貴山氏は沙沙貴神社などが挙げられ、合併により消えてしまった地名もあるので本当に沢山あります。

 

ただ、かと言って鹿深が確かな話かは分かりません。

古代のことになると、関係性を辿るのが非常に面倒なことになるのです。

もちろん、古くからの読み方が「こうか」であることには間違いないでしょう。

 

さらに、古い名称では呼び方が先にあり表記が後付けされるので「鹿深」が「甲賀」になったり、「かふか」が「こうか」になったりするのです。

特に漢字の表記は、昔のものほど当て字なので字自体の意味に頓着していなかったりするのです。

 

「かふか」も昔の表記なので「かふか」と読むのではなく、「こうか」と読むとされます。

古文風に解説するなら、まず先頭以外の「ふ」は「う」と読むので「かうか」、「au」は「ou」と変化するので「こうか」となるのです。

 

この様に伝統ある読み方なのですが、「こうが」読みも実際かなり増えています。

それこそ、一般公募されることからも察せられるでしょう。

むしろ、こちらの読み方が最早一般的になっているかもしれません。

 

一方で、昔からの呼び方を残すのも歴史好きとしてはありがたく思います。

昔の地名が欠片も残っていないので現在地がどこか推定できない、これが非常に困るのです。

なので、そういう昔の呼び方が生き残れるよう大切にしたいです。

日本の文化財建造物は使い回されるし移動もするので歴史を知ると面白い

日本の歴史的な建造物は、よく使い回されてきました。

あの寺は元々あそこにあったものだとか、あの門は元々は何とか城のものだったとか、実に様々な建造物が使い回され移動しています。

 

これは日本文化の大きな特徴で、極めて古くからそうしたことが行われてきました。

例えば平城京大極殿は元々は藤原京のものと言われていますし、その後さらに恭仁京に移され、都が平城京に戻った際には恭仁京に置いてかれ山背国分寺の金堂として使われたのです。

これらの経緯がどこまで本当であるかは、まだ確定されたものではありません。

 

しかし、事実であるならば物凄い転職実績ですし激動の建物生と言えるでしょう。

ちなみに、9世紀の終わりにこの建物は消失してしまったので今はありません。

 

また、こうした建物の変遷があることが欧米の石の文化と大きく違う所で、文化財の保護関連でも注目されることが多い題材です。

要するに真実性の問題で、石やレンガで出来た建造物に比べ木の建造物は変化が大きいので中々にそこら辺がややこしくなってしまいます。

修理でも、新しい部材に取り換えていくと元々の部材が無くなるなどの問題があるのです。

 

ここら辺は文化財保護だけでなく、文化財における本物とは何かを考える上でも重要になります。

文化財では昔から変わっていないことが重要であるかの様によく言われるのですが、大抵の場合で厳密に考えれば考える程にその言説はぼろが出るのです。

なので、そうした言説に縛られ過ぎずに文化財の価値を考えることが大切かと思います。

 

むしろ、その変遷が面白いものも沢山あるのです。

滋賀の建造物で言うなら、彦根城はその最たるものでしょう。

彦根城は近世城郭の到達点ともされますが、それを正に体現したお城になっています。

なぜなら、滋賀のお城が彦根城に文字通り集合した集大成だからです。

つまり、伝承も含みますが彦根城には安土城坂本城佐和山城、大津城、長浜城などから部材を持ってきています。

そこを知って見ると、何だか彦根城が凄く感慨深い存在に思えるのです。