湖国探遊記

滋賀の歴史や文化を中心に、たまにそれ以外も

祭りの在り方を変えたりした明治に変わった暦による影響

明治の近代化や文明開化は、日本文化に様々な影響を与えました。

この影響を挙げ始めれば最早きりがない程で、どこがどう変わったかを解明する以前に、そもそも変化を認識できないことすらあります。

変わってしまった文化が、今や馴染み過ぎているのです。

 

そんな馴染み過ぎて分かりずらい変化の最たるものの1つが、暦かと思います。

つまり、明治になり太陰太陽暦から太陽暦へと変わったのです。

この明治以前に使われていた暦を旧暦、それ以降の暦は新暦と呼ばれます。

 

これによって今まで通りの日付の数え方が使えなくなり、行事の日取りが大混乱に陥りました。

 

ちなみに、季節感を正しく表せるのは旧暦ではなく新暦の方です。

例えば旧暦の場合だと閏月を3年に一度入れる必要があるのに対して、新暦では4年に一度の閏年に一日挿入するだけで済みます。

この様に新暦の方がずれが少なく、同じ日付に同じ季節が来るのです。

なので、旧暦から新暦へと変えた際に混乱が起きてしまったのは、その対応方法が一貫しておらず場当たり的になったことが大きいと考えられます。

 

もっと言うと、明治政府が季節感と暦のすり合わせ方法を決めた上で計画的に切り替えていれば、こんなことにはならなかったかもしれません。

 

ではどの様な対応がなされたかというと、まず大きな傾向として次の2つがあります。

  • 日付が重要なら新暦でも同じ日付で行う
  • 季節感など時期が大事なら新暦ではずらした日付で行う

最初の方の代表例が、端午の節句や七夕などの節句です。

これらは日付に意味があったので、昔と変わらない日程で行われることになりました。

しかし、季節感がずれたことで七夕なのに梅雨の最中で星空が今一になりがちなどの様々な弊害が起きたのです。

また、こうした季節感の違いによる弊害を避ける為に日付をずらした地域もあります。

 

次のずらした方では、収穫祭やお盆などが代表例です。

この中でもお盆は混乱っぷりは分かり易い事例で、次の3通りの日付が生まれました。

  • 旧暦の日付のまま新暦でも行う
  • 旧暦の日付から便宜的にひと月ずらした新暦の日付で行う
  • 旧暦と同じ太陰太陽暦を用いその日付で行う

これらのどの方法を採用したかやその理由は地域によってまちまちで、一貫した理由は言い難いと思われます。

それでも例えば真ん中の月遅れと呼ばれる方法がよく採用される理由としては、農作業との関連が指摘されることが多いです。

 

また、この方法は季節感を合わせる手間が一番少ないのでその他の行事にも使われたりします。

ただ、全く旧暦と同じ日付になるわけではないのであくまで便宜的な方法です。

よく旧暦と新暦はひと月ずれているとされますが、実際には1から2か月程度のずれ幅があります。

 

さらに、こうした日付の問題だけでなく行事の中身にまで影響を与えた事例もあるのです。

先程挙げた七夕とお盆が分かたれたことは特に有名ですが、滋賀でもその影響を受けた祭りがありその1つとして日吉山王祭が挙げられます。

 

この祭の中では神事の1つに献茶式が行われており、そこで神様に献ずるお茶がその年の新茶ではなくなったという一見して分からない部分に違いがあるのです。

この儀式が行われるのは4月で、元々の旧暦だと大体今の5月頃なので新茶もちゃんと取れていたと考えられます。

 

そんな微妙なと思うかもしれませんが、このお茶は極めて由緒正しきもので侮ってはなりません。

なぜなら、最澄が唐より持ち帰った種子を植えたと伝わる日本最古の茶園とも呼ばれる日吉茶園のお茶だからです。

しかも、この儀式は宵宮落とし神事という神様が出産をする儀式の無事を祈って行われるものでもあります。

なので、気持ちとしてはその年の新茶がやはり良いなとは思いますが、最早どうしようもないことなのです。

 

この様に暦の影響は意外な形で響いていることがあり、何が何だかという思いにもかられます。

しかし、その1つ1つを紐解くことはその祭りに対してどの様に向き合ってきたかを見直すことにも繋がるのでやはり大切です。

実に不思議な紫香楽宮とそこから感じる聖武天皇の仏教への思い

信楽は中心地よりもかなり奥まった所にある、正に山間の田舎町です。

かつては焼き物の産地として賑わっていたそうですが、今はだいぶ落ち着いています。

 

そんな今は焼き物の里として有名な信楽ですが、かつてここに紫香楽宮という都が築かれた時期がありました。

正確には都と呼べるか微妙なのですが、非常に重要な歴史の一幕なのは間違いありません。

 

一方でその様な非常に重要な場所でありながら、それを感じさせるものは全く残っていないように感じます。

もちろん、今の信楽の中心地と紫香楽宮の中心地がずれている影響も大きいかもしれません。

しかし、何よりの問題はここが都がおかれるような場所には思えないことが原因でしょう。

 

つまり、都として然るべき交通の要衝ではないのです。

交通の要衝であればこそ人や物が集まり発展し都になる、あるいは最初から都として築く場合でも物流の良さが生命線になります。

何回か行われた何れの遷都でも、大量の物資を運搬できる川や海の近くが選ばれているのです。

 

翻って紫香楽宮はどうかというと、これが全く良くありません。

大戸川や野洲川を使えばとも思えますが、それでも如何せん山奥すぎます。

ちなみに、焼き物の産地として発展したのはここで原材料や燃料が共に確保できたことが大きく、交通が厳しくともそれらの魅力が勝ったのです。

 

この様に他とは毛色の違う不思議な紫香楽宮ですが、それもそのはずでその役割が他のとは大きく違うのです。

さらに、その役割は聖武天皇がこの都を築いた理由であり仏教による国造りに関係しています。

 

そもそも、紫香楽宮の不思議さは3つの都市を組み合わせて考えられていたことに端を発します。

この3つの都市の残り2つは、恭仁京難波宮です。

すなわち恭仁京こそが政治の中心地で平城京から遷都された都であり、難波宮は外交の都として、紫香楽宮は仏教の都として築かれたのです。

 

これら3つの都や国分寺建立の詔、大仏建立の詔などの政策が、最近の研究では連動して計画的に進められていたと指摘されることが増えています。

 

例えば、恭仁京から紫香楽宮まで恭仁京東北道という行幸にも使える官道が開かれました。

この道は行幸も出来る程なので、ただの山道ではなくそれなりに立派なものだったと思われます。

それをあんな山奥に通すのですから、相当な日数と労力が必要だったのは想像に難くありません。

しかも、恭仁京に移してから1年ちょっとでこの道は開通しているのです。

こうしたことから、恭仁京の造営と並行して恭仁京東北道の敷設と紫香楽宮の計画が進められたと考えられます。

 

そして、その後に紫香楽宮の造営が進む中で大仏建立の詔が当地にて発せられたのです。

 

ただ、なぜ信楽の地が選ばれたはよく分かってはいません。

大仏などを作る為の用材の確保が容易だったなどと様々な理由が挙げられますが、やはり宗教的な理由が鍵になるでしょう。

こんな辺鄙な場所に作るのですから、実用的な理由ではそもそもずれていると思います。

先程の理由でも、用材を確保できたとして人足やその食料などの問題が新たに出てきそうです。

 

何故に信楽の地を選んだのか、聖武天皇の思いはようとして分かりません。

 

その上、恭仁京を始めとした一連の計画が短命で終わったことも謎を深める要因になっています。

恭仁京はたった3年程度で造営が停止に追い込まれ、5年目には平城京に戻されました。

紫香楽宮での大仏造りも甲賀寺で体骨柱を建てる程に進められてはいましたが、火災や地震などの情勢不安から途中で終わっています。

 

この様に聖武天皇の計画は、まず失敗としか言いようがない結果に終わってしまうのです。

それでもなお東大寺にて大仏を建立したことを見るに、この大仏ひいては仏教にやはり並々ならぬ思いがあったのだろうと察せられます。

この強い思いは仏教を半端にしか信じていない人にはくみ取れず、そこが聖武天皇に対する理解を阻んでいるのかもしれません。

仏教は本当に国を救う現実的な力がある、この前提が大切な様に思えます。

 

実際、聖武天皇はこれまで非常に無茶な政策を進めた人として考えられてきましたが、よく見るとそれなりに計画性があった可能性が今は指摘されているのです。

 

また、この計画性は紫香楽宮に関する発掘調査からも垣間見ることが出来ます。

果たして聖武天皇は何を考えていたのか、手掛かりは今も信楽に眠っているのかもしれません。

琵琶湖が琵琶の形に似ているという由来はよくよく考えると謎、どこから見たん?

琵琶湖という名前の由来について、最も有名なのが琵琶の形に似ているという説でしょう。

しかし、これはよくよく考えるとすごく不思議に思えます。

 

なぜなら、琵琶湖は大きすぎてまず全体像がよく分からないからです。

おそらくですが、滋賀のどの山に登っても端から端まできっちり見え、かつ琵琶の形と似ていると納得できる場所はないでしょう。

少なくとも、そう言われているからそう見えるの域にとどまるかと思います。

何と言うか、上から全体を見下ろせるのではなく、浅い角度で斜めから見る感じになるのです。

 

もちろん、琵琶の形に似ている説を否定したいわけではありません。

要するに、飛行機も無く、高い所から見渡しても全体像を把握し難いのにも拘らず、どの様にして琵琶の形をしていると思い至ったのかが気になるのです。

 

まず、この琵琶に似ているとの記述は古いもので14世紀前半の「渓嵐拾葉集」に出てきます。

この書物は、比叡山の僧侶である光定によって書かれました。

なので、光定はおそらく比叡山から琵琶湖を眺めていたのだろうと思います。

ただ、比叡山は琵琶湖の下の方なので余計に全体像の把握が難しくなるでしょう。

 

ならばどの様にしてと思うのですが、これはもうひらめきでしかなかったのではと想像されます。

比叡山の近くは太さが変わらず細長いが、堅田辺りで急に膨らみ始め、それ以降もずっと太い、これは正に琵琶の形だ」といった感じだったのかもしれません。

 

むしろ、ざっくりとした認識だからこそ琵琶の形に思えた可能性もあります。

また、光定は特に僧侶なので感得したと言った方が良いかもしれません。

いずれにせよ、視覚ではなく、想像力をもってして琵琶の形にたどり着いたのではと思います。

なお、光定が一番最初に琵琶に似ていると言い始めたかは分かりません。

 

それでも、こうした認識は受け継がれ17世紀末に貝原益軒が日記の中で琵琶湖全体の地形に触れ、琵琶に似ているから琵琶湖と呼ばれるといったことを記しています。

また、琵琶湖という呼び方が一般に定着したのもこの江戸時代の頃になってからです。

これには、竹生島弁才天信仰が流行したことなどが理由によく挙げられます。

 

しかし、竹生島弁才天には琵琶を持ってないものも多いのがやや引っかかる所です。

一般的には琵琶を持った弁財天の印象が強く、竹生島の方は押し流されて広まったのでしょうか?

何だかもやっとした疑問が残りますが、確かに何らかの流行が無いとここまで定着しなかったとは思います。

なぜなら、琵琶湖には淡海の海や鳰の海と別名も多く、それらを淘汰するには勢いが不可欠です。

 

琵琶湖という名前の由来は当たり前に語られていますが、この様に少し掘り下げると色々な疑問が湧いてくるのです。

 

【2023年1月16日追記】

色々と考えを巡らしてみた結果、私の中で今の所一番琵琶湖が琵琶の形により見える地点についてまとめてみました。

もしよろしければ、合わせて読んでみてください。

坂本ケーブルの延暦寺駅からなら琵琶湖が最も琵琶の形に見えるかも?個人的な見解ですが - 湖国探遊記

様々な価値基準がある仏像の博物館で感じる評価の偏りとその克服

仏像の価値基準は、こういうものだというのがありそうでない悩ましいものです。

つまり様々な評価が出来るのですが、特に博物館ではそれなりに偏っているように思えます。

 

例えば博物館に展示していれば、その説明文に書かれていることはどうして作られたかや関連する出来事などが恐らくは多いでしょう。

要するにその仏像に関する歴史的な説明で、歴史的な価値を評価していると言えます。

 

あるいは、そうした説明よりも造形の美しさや作りの巧みさなどに関心を持っている人もいるかもしれません。

これは、仏像の美術的な価値を重視した見方だと考えられます。

もしかしたら、こちらの方に触れている博物館もあるでしょう。

 

そして、博物館で鑑賞しているとこの2つの見方に気づけば偏り過ぎてしまっているのです。

もちろん、これらの価値基準は重要で仏像にとって欠かせない観点だと思います。

 

一方で、もう1つ重要な価値である信仰文化としての面は忘れてしまいがちです。

地域でどの様にお祀りされているかや、それがある周辺環境との関係性など、これらは間違いなくその仏像にとって大事な個性を形作っています。

 

さらに、歴史的な価値が分からなかったり、美術的な価値が微妙だったりしても、その地域文化を語るには欠かせない存在なこともあるのです。

 

そのため、最近の博物館ではこうした価値をどうにかして伝えられないか模索しているそうです。

ただ、中々に難しいらしく考えてみればそりゃそうだと思います。

まさかお堂をそのまま持ってくる訳にもいきませんし、周辺環境の再現なんてまず不可能です。

それでも、一部でも表現できないか、例えばお香や声明、風景の映像など色々考えられています。

 

また、視覚以外の五感にも訴えられればより記憶に残る展示になるでしょう。

あるいは、歴史的や美術的な説明が苦手な人でもとっつきやすくなるかもしれません。

 

こうしたこともあるので、これからの博物館でどの様な展示がなされるのか実に楽しみです。

近江鉄道の1デイスマイルチケットはお得さが凄い。JRを多用するよりも安くなることも

滋賀を旅する際に、近江鉄道のことを思い浮かべない方も多いかもしれません。

しかし、近江鉄道が最寄り駅となる観光地もありますし、何よりお得な切符も用意されています。

その中でも使い勝手が良いのが、1デイスマイルチケットです。

 

この切符は金、土、日と祝日のみ発売されており、近江鉄道の全線が一日乗り放題で大人900円、子供450円とかなりお得になる切符です。(年末年始は除く)

つまり、大人でしたら片道450円よりも運賃が高くなるならそれだけでお得になります。

その上、この切符を提示することで割引を受けられる施設もあるのです。

 

また、この切符は上手く使うとJRを多用するよりも旅費を抑えられます。

例えば多賀大社に行く場合、次の様になり680円もお得になるのです。(大津駅出発で計算)

なお今回は大津駅発で考えましたが、当然どこから乗るかによってお得になる金額は変わります。

それとJR南彦根からバスで行く方法もありますが、同じく大津駅発で往復2,140円です。

ただ、バスの本数がかなり少なく不便な上にこの金額なのであまりお勧めしません。

 

ちなみに、1デイスマイルチケットの割引対象の1つには多賀大社名物の糸切り餅総本家 多賀やの糸切り餅(糸切り餅 10%OFF)も含まれています。

この糸切り餅は多賀大社の門前で売られており、お土産にも丁度いい一品です。

 

さらに、折角近江鉄道で行くなら太郎坊宮前駅で降り太郎坊宮へ行くのもありでしょう。

ここも勝運の神様として非常に有名ですが、近江鉄道以外だと少し行きにくいのです。

あるいは彦根城でも割引されるので、そちらに行くのも良いかもしれません。

 

この様にお得な1デイスマイルチケットですが、次の様な弱点もあります。

  • 使える日が限定される
  • 購入できる駅や時間が限定される
  • 近江鉄道の運行本数の少なさや所要時間の長さから余計な時間が掛かる
  • 乗り方によっては必ずしもお得になるわけではない

 

1つ目はつまりほぼ休日しか使えないことなのですが、子供と夏休みに行くなどでなければ問題は無いかと思います。

2つ目も彦根駅近江八幡駅、7時半から17時20分(平日は30分)までと時間は限られますが米原駅と主な駅で買えるので特に支障はないでしょう。

一応、無人駅から乗っても乗務員が販売してくれるようです。

この様に購入の仕方が複数あるので、公式ホームページでよく確認するようにしてください。

 

そのため、本当に問題なのは3つ目と4つ目です。

これらの問題はJRを駆使してもいけるが、近江鉄道をより多く活用する場合に起きます。

要するに、近江鉄道でしか行けない所を目指すなら3つ目は受け入れるしかありませんし、4つ目も単純な往復運賃との比較で済むでしょう。

 

先の多賀大社の場合、近江八幡から近江鉄道に乗るとJRで彦根に行く場合より片道1時間くらいは余計に掛かります。

当然、乗り方により時間の差が異なりますが近江鉄道の方が遅くなるのは間違いありません。

しかも、電車の本数すら少なくなります。

こうしたことから、使うなら焦ることのないゆったりした旅程と心持ちで行くのがおすすめです。

 

それから、必ずしも得かどうか微妙な場合もあるので事前によくよく調べることが肝心です。

時間のことなどを含めて考えると、多少の差ならJRの方が良いと思える場合もあります。

 

1デイスマイルチケットは万能かと問われると、やはりそうとは言い切れません。

しかしながら、上手く使えば非常にお得な切符なことも確かです。

それに、今まで行ったことが無い場所に行くきっかけにもなるでしょう。

なので、1デイスマイルチケットと近江鉄道についてぜひ一度調べてみてください。

(今回の情報は2022年8月時点のものです)