信楽は中心地よりもかなり奥まった所にある、正に山間の田舎町です。
かつては焼き物の産地として賑わっていたそうですが、今はだいぶ落ち着いています。
そんな今は焼き物の里として有名な信楽ですが、かつてここに紫香楽宮という都が築かれた時期がありました。
正確には都と呼べるか微妙なのですが、非常に重要な歴史の一幕なのは間違いありません。
一方でその様な非常に重要な場所でありながら、それを感じさせるものは全く残っていないように感じます。
もちろん、今の信楽の中心地と紫香楽宮の中心地がずれている影響も大きいかもしれません。
しかし、何よりの問題はここが都がおかれるような場所には思えないことが原因でしょう。
つまり、都として然るべき交通の要衝ではないのです。
交通の要衝であればこそ人や物が集まり発展し都になる、あるいは最初から都として築く場合でも物流の良さが生命線になります。
何回か行われた何れの遷都でも、大量の物資を運搬できる川や海の近くが選ばれているのです。
翻って紫香楽宮はどうかというと、これが全く良くありません。
大戸川や野洲川を使えばとも思えますが、それでも如何せん山奥すぎます。
ちなみに、焼き物の産地として発展したのはここで原材料や燃料が共に確保できたことが大きく、交通が厳しくともそれらの魅力が勝ったのです。
この様に他とは毛色の違う不思議な紫香楽宮ですが、それもそのはずでその役割が他のとは大きく違うのです。
さらに、その役割は聖武天皇がこの都を築いた理由であり仏教による国造りに関係しています。
そもそも、紫香楽宮の不思議さは3つの都市を組み合わせて考えられていたことに端を発します。
すなわち恭仁京こそが政治の中心地で平城京から遷都された都であり、難波宮は外交の都として、紫香楽宮は仏教の都として築かれたのです。
これら3つの都や国分寺建立の詔、大仏建立の詔などの政策が、最近の研究では連動して計画的に進められていたと指摘されることが増えています。
例えば、恭仁京から紫香楽宮まで恭仁京東北道という行幸にも使える官道が開かれました。
この道は行幸も出来る程なので、ただの山道ではなくそれなりに立派なものだったと思われます。
それをあんな山奥に通すのですから、相当な日数と労力が必要だったのは想像に難くありません。
しかも、恭仁京に移してから1年ちょっとでこの道は開通しているのです。
こうしたことから、恭仁京の造営と並行して恭仁京東北道の敷設と紫香楽宮の計画が進められたと考えられます。
そして、その後に紫香楽宮の造営が進む中で大仏建立の詔が当地にて発せられたのです。
ただ、なぜ信楽の地が選ばれたはよく分かってはいません。
大仏などを作る為の用材の確保が容易だったなどと様々な理由が挙げられますが、やはり宗教的な理由が鍵になるでしょう。
こんな辺鄙な場所に作るのですから、実用的な理由ではそもそもずれていると思います。
先程の理由でも、用材を確保できたとして人足やその食料などの問題が新たに出てきそうです。
何故に信楽の地を選んだのか、聖武天皇の思いはようとして分かりません。
その上、恭仁京を始めとした一連の計画が短命で終わったことも謎を深める要因になっています。
恭仁京はたった3年程度で造営が停止に追い込まれ、5年目には平城京に戻されました。
紫香楽宮での大仏造りも甲賀寺で体骨柱を建てる程に進められてはいましたが、火災や地震などの情勢不安から途中で終わっています。
この様に聖武天皇の計画は、まず失敗としか言いようがない結果に終わってしまうのです。
それでもなお東大寺にて大仏を建立したことを見るに、この大仏ひいては仏教にやはり並々ならぬ思いがあったのだろうと察せられます。
この強い思いは仏教を半端にしか信じていない人にはくみ取れず、そこが聖武天皇に対する理解を阻んでいるのかもしれません。
仏教は本当に国を救う現実的な力がある、この前提が大切な様に思えます。
実際、聖武天皇はこれまで非常に無茶な政策を進めた人として考えられてきましたが、よく見るとそれなりに計画性があった可能性が今は指摘されているのです。
また、この計画性は紫香楽宮に関する発掘調査からも垣間見ることが出来ます。