滋賀県のより湖に近い地域を巡っていると、昔は一体どんな風景だったのだろうかというのをよく考え込んでしまいます。
昔と今が変わっているのは当たり前と思うかもしれませんが、滋賀には極端な違いがあるのです。
その1つに内湖が無くなったことがあり、湖周辺の景色に大きな違いが生まれました。
また、知らなければ大きく変化したこと自体に気づけないことも起きてしまうのです。
この内湖とは琵琶湖と繋がってはいるもののより内陸にある独立した湖沼で、本湖に付属するので付属湖とも呼ばれます。
こうした内湖は、かつて琵琶湖には大小合わせて40余りありました。
しかし、戦中戦後の食糧難を乗り越えることを主な目的に耕作地として干拓が進み、既存のものは23個までに減ってしまいました。
なので、当時としてはやむを得ない事情があったのです。
ただ、歴史的な風景が失われるなど負の側面があったことも事実で、それ思うともう少し何か手は無かったのかとも思ってしまいます。
この内湖の問題はこの様に功罪どちらもある話なので、実に悩ましいです。
さらに、歴史的な風景の問題は見た目だけの話ではありません。
つまり、内湖の機能を活用する為に選ばれた場所だとその理由が想像し難くなっているのです。
例えば佐和山城は、入江内湖と松原内湖という2つの内湖による水運を活用していました。
さらに、東には東山道も走り北国街道との分岐点にも近いので陸上交通の要衝でもあります。
要するに佐和山城は水陸両方の要衝を抑えられる上、湖によって背後を取られ難いと極めて優秀な城だったのです。
この様に佐和山城にとって2つの内湖は、立地条件を説明する上で欠かせない存在なのです。
しかし、その2つの内湖は今はもうありません。
なので、この佐和山城がどの様に機能していたかが現地に行っても想像し難くなっているのです。
また、佐和山城の城下町が彦根城側ではなく鳥居本駅側なのかも分かりづらく感じます。
今では彦根城側の方が広い土地があるように見えますが、元々は内湖なのです。
ちなみに、松原内湖は近くの彦根城にとっても重要でやはり水運などに活用されていました。
しかも大名庭園である玄宮園の背景にもなっていたので、もし松原内湖が残っていれば
どの様な風景だったのだろうかと思ってしまいます。
この様に、様々な内湖が歴史的に重要な役割を担ってきました。
そのため、滋賀の歴史を考える上では無くてはならない存在ですし、やはり目で見て理解できればなお良かったでしょう。
ただ、そうは言ってもどうしようもないので、この様な地に赴いた際には精一杯の想像力を働かせその風景を思い描きたいと思います。