滋賀の歴史を見ていると、今の印象と違い過ぎないかとよく思わされます。
今の滋賀は色々な調査などをみていても、やはり知名度が低いなどぱっとしません。
しかし、歴史的に見ると滋賀は長い間かなり賑わっているのです。
それを象徴する1つが祭りの多様さで、特に曳山は如実に誇示しています。
この曳山は例えば長浜だと動く美術館とも称される様に、全体が工芸品の塊なのです。
つまり、もの凄く高いので十分すぎる余裕が無いとできませんし、文化面でのつながりや豊かさも求められます。
この様に、滋賀にいた勢力の凄さが分かるものが各地に残っているのです。
なので、現状との差異に違和感を覚える程で何があったのだろうかと思ってしまいます。
そして、その転機となった要因の1つが明治頃からの交通事情の変化にある気がするのです。
簡単に言うと、交通事情が変化していくことで滋賀の交通の要衝としての役目が変わり、ただ通り過ぎる場所になっていったのではないでしょうか。
例えば琵琶湖の水運は明治から始まる鉄道の普及で大きな打撃を受け、自動車が一般化するに従い廃れていきました。
それもあってか、ミシガンで有名な琵琶湖汽船の前身は明治頃には既に遊覧船を始めています。
また、陸上交通の発達は宿場町としての役目も終わらせました。
要するに、滋賀は歴史的に長く続いたあり方を明治頃から大きく変化させた様に見えるのです。
これが、今と昔の印象の差に繋がっているのではと思います。
そのため、もっとこの辺りの事情を今後調べていくのも面白いかもしれません。
それに、今はベッドタウンとして草津辺りが賑わうなど、昔と違う形で交通網が活かされる場合もあるでしょう。
やはり、滋賀を読み解くのに交通事情はいつも重要な鍵になっています。